『KanonSS』


 平日 〜 weekday 〜







 ガタン。
 辺りの騒音にかき消されそうになりながらも僅かに聞こえた音と共に、缶コーヒーが自動販売機の取り出し口に姿を現した。
 祐一はそれを引っつかんで取り出した後、無言のままに元の場所まで戻る。
 商店街にある、ゲームセンター。平日の夕方だけあって、学生服の人も多い。
 祐一は買ってきたばかりのコーヒーの缶をなんとなく見つめ、プルタブに指をかけ、開けた。
 疲れきった表情のまま、一口だけ飲む。
「不味い」
 そう呟く。いつもいつも美味しいコーヒーを飲んでいるせいか、この手の缶コーヒーやら紅茶やらを、あまり飲みたいとは思えなくなってきた。
 舌が肥えるっていうのも、あまり良い事ばかりじゃないな。とぼんやりと思う。
 二口目を口に含んだ所で、歓声が沸き起こった。そちらに目をむける。
 同じ制服を着た二人が、こちらに向かって歩いてくる。
「これで気がすんだかしら?」
「えぅー。勝負はまだまだ始まったばかりです!」
「ふふん。完膚なきまでにやられないと気が済まないようね」
「いい気でいられるのもいまのうちだけですよ! 次はあれで勝負ですぅ!!!」
「望むところよ」
 自分の目の前に立って言い合っている二人に、祐一は一応聞いてみた。
「なぁ、二人とも。そろそろ腹もへっただろ? もうやめにして帰らないか?」
 ギン、という効果音と共に、4つの目が祐一を貫いた。祐一は思わず目を逸らした。
「何でもありません」
 相沢祐一は泣きそうになりながら、この世の終わりが訪れたかのようなげっそりとした表情で、「人生ってなんだろう」と考え始めた。




 
平日 〜 weekday 〜





 相沢祐一にとって、その日は何でもない平凡な一日になる予定であった。
 学校が終わり、いつものように名雪が部活に向かい、クラスメート達に挨拶をした後は、ぶらぶらと商店街にでも行って時間をつぶし、居候の身ではあるが、暖かい我が家に帰るはずだったのだ。
 しかし、その予定はこの一言で脆くも崩れ去る事になった。
「相沢君。今日、これから暇かしら?」
 名雪が部活に向かい、さて帰ろうとしたところだった。振り返ってみると、香里だった。
 美坂香里。17歳。祐一のクラスメートであり、容姿端麗、才色兼備などの言葉が似合う女性で、学年一位の成績とあいまって、学校内ではそれなりの有名人物である。
 最近、妹である美坂栞が、患っていた病が治り、復学した事もあって上機嫌なせいか、「最近物腰が柔らかくなった」と、一部の男子生徒から人気沸騰中であったりもする。
「ん? 確かに暇と言えば暇だが、どうかしたのか?」
「あ、うん。ちょっとね、付き合って欲しいところがあるんだけど……」
 香里は、長い髪を指先で弄りながら、僅かに目を逸らした。
「別に構わないぞ」
「本当? ありがとう、相沢君」
 香里は祐一の目から見ても分かるほど、安堵した様子を見せた。
 それを見て、祐一の中の悪戯心がむずむずと動き出した。
 祐一は意地の悪い笑みを浮かべる。
「しかし、いくら香里でもこういう時は不安なものなんだな」
「え?」
「心配しなくても、俺は女性からのデートの誘いを断るほど満たされてないのにな」
「ちょ、え、バ、バカ! そんなのじゃないわよ!」
「意外だな。冗談のつもりだったんだが、図星だったのか」
「だ、だから……」
 香里は慌てて弁解しようとするが、祐一はさも楽しそうに笑っている。
「いつもの香里ならこれくらいの冗談簡単に受け流すだろ? それだけ取り乱すって事は、事実だってわけだ」
「……」
「あ、おい」
 何も言えなくなってしまった香里は、頬を赤くしたまま祐一に背を向け、ズンズンと教室の出口へと向かって歩き始めた。
 祐一は慌てて追いかけた。
「なあ、香里。からかって悪かった。だから待てってば」
 香里が足を止める。
「俺が悪かった。どこへでも付き合うからさ、機嫌なおせって」
 香里は振り返り、祐一の顔をじーっと睨んでいたが、しばらくしてふっと表情を緩めた。
「しょうがないわね。あとで何か奢ってもらうわよ?」
「仰せの通りに。お姫様」
 祐一が恭しく頭を垂れる。
「いきましょ。時間がもったいないわ」
 香里は再び歩き出す。祐一もその後を追う。
 後ろを歩く祐一へ、香里は一つ忠告した。
「ところで相沢君、一つ言っておくけどあなた、ぜんっぜん騎士って柄じゃないわよ。もちろん、あたしもお姫様って柄じゃないけどね」
 そう言う香里の口調は、とても穏やかなものだった。
 祐一は香里の後ろを歩きながら、こんな日もたまには良いかもしれないな、と思っていた。

 今はまだ。






 それは、ちょうど祐一が学校を出た瞬間だった。
「お姉ちゃん!!」
 祐一と香里が今し方出たばかりの学校の方へ振り返ると、土煙を上げそうなくらいの猛ダッシュで近づく人影があった。ただし、実際のスピードはいたって普通の小走りぐらいであったが。
「栞か?」
 祐一の呟きの通り、その近づく人物は美坂香里の妹であるところの、美坂栞だった。
「そう、みたいね……」
「香里?」
「ん、どうかしたの? 相沢君」
 祐一が見ると、香里は思わず見惚れるような笑顔で聞き返してきた。今香里の声が沈んでいたように思ったのは、気のせいだったのだろうか。
 その疑問を祐一が判断する前に、栞が二人に追いついた。肩でゼエゼエと息をしている。
 栞の様子を見て、香里がたしなめるように言った。
「栞、あなた、退院してからまだそんなに経ってないんだから、無理しちゃ駄目じゃない。私たちだって、逃げたりはしないわよ」
「お、お姉ちゃん……」
 栞はまったく香里の言葉を気にせず、息を整えながら香里に食って掛かった。
「卑怯です! 皆さんと交わしたあの約束を破るつもりですか!!」
「な、何を言ってるのよ」
「しらばっくれても駄目です。一緒の家に住んでるんですよ? お姉ちゃんが今日いつも以上に身だしなみに気合いを入れてたのは確実です」
「だからなんなのよ」
 栞が飛び掛からんばかりに一歩香里へ間を詰めると、一歩香里が後退った。
「ここまできて白を切りますか。仕方ないです」
 ここで栞は祐一の方を向いた。
「一つだけ聞きます。お姉ちゃんは何故祐一さんと一緒にいるんですか」
「あ、ああ。香里がちょっと付き合って欲しいところがあるって」
 栞の勢いに戸惑いながらも祐一は答えた。それを聞いた栞はそれ見た事かと香里へと詰め寄る。
 祐一には何がなんだか分からない。
「どうですか? これは確実に『祐一さん不可侵条約』を違反しています!」
 何やら聞き捨てならない単語が出てきたような気がしたので、祐一は口を挟んだ。
「ちょっと待て。なんだ、今の不可侵条約とかなんとか」
「祐一さんは黙っててください!」
「はい」
 あまりの迫力に思わず祐一は頷いてしまっていた。そこで、今度は香里に視線を向けた。香里はその視線に気付いたのか、穏やかに栞に言い聞かせる。
「栞。相沢君が戸惑ってるみたいだから、もう少し落ち着いて……」
「愛しの祐一さんがお姉ちゃんの毒牙にかかろうとしているんです。これが落ち着いてなんていられるわけがないです!!」
「毒牙ってね……」
「祐一さんも祐一さんです。私よりもお姉ちゃんの方がいいって言うんですか? そうなんですか?」
「あ、いや……そうなんですかって……」
 突然の事で何も言えないでいる祐一に、栞は業を煮やしたように言った。
「確かにお姉ちゃんは奇麗だし、頭もいいです。しかしです!」
 こう続けた。

「お姉ちゃんみたいな年増より、未来のある私の方がお買い得だと思います!」

 時が止まった。
 数日後、祐一に「あれはきっと鬼の力だ」と言わしめるほどの空気の変化だった。
「栞」
「なんですか?」
 更に空気の質が変わった。祐一は寒くも無いのにガタガタと震える体を掻き抱いた。
 栞はその変化に気付いているのかいないのか、まったく今まで通りであった。
 香里が、一字一字噛み締めるように発音した。
「年増って、どういう事かしら」
「言葉通りです。わざわざ言わなければ分かりませんか?」
「一つしか違わないじゃない。そもそも、あなたが幼児体型なだけじゃないかしら?」
「私は今までずっとベッドの上で生活していましたから。まだまだ発展性があるはずです」
「その貧相な胸の発展は、絶望的なような気がするけど」
「お姉ちゃんこそ、今にそのプロポーションが崩れ落ちるに違いありません。きっと、『曲がり角』ってやつです」
「負け惜しみにしか聞こえないわ」
「……」
「……」
 祐一は二人の視線が交わる場所へ、確かに何かがスパークするのを見た気がした。
「何だったら、決着をつける?」
「望むところです。どちらが祐一さんに相応しいか、勝負です」
 祐一は無意識のうちに、その場から逃げようとしていた。この場は危険だと動物的本能がこれでもかというくらいに信号を送っていた。
「相沢君」
 右手を香里に掴まれた。
 殺られる。
 祐一は瞬間的にそう思った。
「どこへでも付き合ってくれるって、言ったわよね」
 祐一は無言でコクコクと首をたてに振る。
 左手を栞に掴まれた。
「それでは祐一さん。私たちの勝負の立会人として、そして商品としてしっかりと付いてきてください」
「逃げようなんて、思わないでね」
 そして、祐一は二人に引きずられていく。
「なんでこうなったんだ……」
 祐一はよく晴れた空を見上げ、今日という日を嘆いた。




「よう、奇遇だな。相沢」
「北川……か」
 祐一が顔を上げると、悪友である北川がコーラを片手に立っていた。
 祐一は残りが半分ほどになったコーヒーの缶を手で弄びながら、ゲームセンターの入り口近くにある休憩用の椅子に腰を下ろしている所だった。
 北川にさそわれてゲームセンターへ来た事もあったので、彼がここにいるのには何もおかしい所はない。
「なんか元気ないな、どうした?」
 祐一は無言で指差した。
 そこには体感系レースゲームの大型の筐体があった。対戦プレイが可能なそのゲームを、制服姿の二人の女生徒が何やら言い合いながらプレイしている。
「あれって、香里と栞ちゃんか?」
「ああ」
 北川は以前とは違い、香里の事を『美坂』ではなく『香里』と呼ぶようになっていた。栞を紹介された際に、「私だけ名前で呼ばれるのは不公平です」と栞に言われたからだ。
 最初、北川が香里の事を呼び捨てにする時に、やたらと照れながら呼んでいたのを祐一は覚えている。そしてその様子を香里に「なに照れてるのよ、気持ち悪い」と言われて、辺りの空気と一緒に真っ白になっていたのも覚えていた。
「何やってるんだ?」
「見ての通りなんだが……」
 祐一はゆっくりと、昔話を語るように北川に事情を話し始めた。
「……幸せ者だな」
 北川は祐一の隣に座り、コーラをチビチビ飲みながら祐一の話を聞いていたが、話が終わったところで、そう呟いた。
「お前は本当にそう思っているのか? もしそうなら北川といえど、本気で許せん」
「冗談だ」
 そして、二人で香里と栞の対戦風景を眺める。ちょうど栞のマシンが、アウトから抜こうとしていた香里のマシンへ体当たりをするところだった。
 歓声が上がる。
 その筐体の周りには、少ないながらもギャラリーが集まっており、中には賭けをしている者もいるのか、対戦風景に一喜一憂していた。
「凄いな」
「ああ。色んな意味でな」
 香里と栞の勝負は、意外にもほぼ互角だった。
 まず、栞の方がコツを掴むのが上手いらしく、ある程度リードする。しかし、少し時間が経ち、香里がそのゲームのシステムを把握し、攻略法を組み立ててからは香里が追い上げる。
 そして、香里に追いつかれるというところで、栞が普通ではやらないような行為をやらかし、香里のパターンを乱す。
 基本的に他のゲームでも同じだった。ただ、エアホッケーなどの、体を動かすタイプのゲームは、香里が優勢で、そうでない物は栞が優勢の傾向があるようだったが。
「一応、いい勝負なんだな」
 北川が呟いた。
「そうだな、タイムはアホみたいに悪いけどな」
「もう少しまともにプレイできないのかね」
「それがだな、最初の格闘ゲームの頃は普通にやってたんだが、段々と相手への妨害に命をかけだしたみたいでな」
「うーむ、カオスだなぁ……」
 事実、混沌としていた。香里が走路妨害をしたと思えば、栞が横から思いっきり突っ込んでコースからはじき出したり、いきなり逆走し始めて、正面からガチンコ勝負をしてみたり。
 観客はさらに増え、沸きに沸いていた。
「んじゃ、まあ、頑張れよ」
 レースゲームが終盤に入ってきた頃、北川が立ち上がった。
「もう行くのか?」
「ああ。っていうか、俺だって遊びにきたんだからな」
「そりゃそうだ」
 祐一は僅かに微笑む。そして、缶コーヒーを一気に飲み干した。
 見ると、何故か北川は右手を祐一に向けて差し出していた。
「……何してるんだ?」
「缶、捨てといてやるよ」
「ああ、サンキュな」
 祐一は北川に空になった缶を渡した。
「じゃあな、相沢」
「おう、また明日な」
 手を振り、北川は去っていく。
 それを見送っていると、勝負が決まったのか、観客が大きな歓声を上げた。
「栞! もう一勝負よ!!」
「構わないですよ? 何度やっても同じです」
 祐一は誰ともなく呟いた。
「お前ら、そろそろやめないか?」




 そんなこんなで、夏だというのにすっかり日が暮れた通りを、祐一と香里は歩いていた。
 ゲームセンターから出た後、祐一が半ば強制的に香里を送っていく事になったのだ。
 二人の勝負は結局、香里の勝利に終わった。負けを悟って去っていく栞の捨て台詞が、「ゲルググがジムに負けるなんて納得できないですぅ!」だったのが印象的だった。
 決着はついたが、今日はもう時間が遅いので、香里が本来祐一を誘いたかったところに行くのは、次の日にしようという事になっていた。
「疲れた……」
 祐一は疲れきっていた。世の中の知ってはいけない事まで知ってしまったような気がしていた。
 早く帰ろう。祐一はそう思った。
 帰れば、ゆっくりできる。秋子の煎れてくれたお茶をのみ、真琴をからかって遊ぶ。そうすればこの理不尽な気分も和らぐはずだ。
「今日は、ごめんなさいね。こんな事になっちゃって……」
 隣を歩く香里の言葉は多少沈んでいた。さすがに祐一に悪いと思っているのだろう。
「まぁ、たまにはいいんじゃないか? 多分」
 確かに疲れたが、心の隅でこう思っているのも事実だった。
「栞の病気が治らなかったら、あんなふうに騒ぐ事なんか、できなかったわけだしな」
「そう、ね……」
 祐一は香里の頭に手を置き、くしゃくしゃと撫でた。
「正直言って、お前らがじゃれあってる様子を見てると、俺も嬉しいよ。疲れたのは確かだけどな」
「もう……」
 香里は祐一の手を払いのけ、手櫛で髪を撫でつけた。
 そして、軽く息を吐く。
「あんな風に馬鹿騒ぎできる事も、幸せな証拠なのかしらね」
「そうそう。ま、家に帰ってからがまた大変だろうけど」
「そうね。まったくよ」
 香里はそう言って祐一に近寄り、自然な動作で、腕を祐一の腕に絡めた。
「お、おい」
「いいじゃないの、これぐらい。そもそも原因は相沢君だったんだし」
 香里はピッタリと祐一の方へ寄り添った。
 そのまま二人は無言で歩く。
 お互いの体温が密着した腕から伝わっていく。
 自動車が一台二人とすれ違い、通りかかる民家から、バラエティ番組の音声が聞こえてくる。
 時間がゆっくりと流れているようだった。
「なあ」
「何?」
 間に絶えられなくなった祐一が、気になっていた事を聞いてみた。
「あの、栞が言ってた『不可侵条約』とかって、いったいなんなんだ?」
「えーっと、それは……」
 香里にしては珍しく、視線を明後日の方へ向け、口を濁す。
 その仕草から余計に好奇心を刺激され、祐一が更に問いただそうとしたその時、背中から突然呼びかけられた。
「祐一!?」
 祐一と香里、二人同時に振り向く。
 名雪が立っていた。
「名雪? どうした、部活の帰りか? なんか真剣な顔をしているが……」
 名雪はその問いには答えず、一点のみをじーっと見ていた。
 祐一と香里がその視線を辿る。
 腕。
 香里がバッと祐一から離れた。
「あ、えっと、名雪、これは……」
「……『祐一不可侵条約』」
 名雪がポツリと呟いたその言葉を聞き、祐一は物凄く嫌な予感がした。
「香里、これはいったいどういう事なのかな?」
「だ、だから……えーっと」
 名雪は今まで見た事の無いような笑顔を浮かべていた。
 恐い。とても恐い。
 名雪が秋子の娘だという事を、祐一はこの時始めて納得した。
「たっぷりと言い訳を聞かせてもらうよ?」
「べ、別に言い訳するような事はしてないわ」
 とてつもなく不穏なオーラを感じ、祐一は隙を見て逃げ出す準備をした。
「祐一、逃げないでね」
 読まれていた。
 終わったな。祐一は悟った。
 空を見上げる。
 星々が瞬き始める時間、すぐに一番星を見つける事ができた。今日は奇麗な星空になるだろう。
 名雪と香里の会話を遠くで聞きながら、瞳を閉じた。
 しばらくして、このような会話が聞こえたような気がした。
「香里、勝負だよ!」
「望むところよ!!」



 ああ、やっぱり今日は厄日だな。という祐一の呟きは、星空へと消えた。











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