『KanonSS』


 謝辞







「『オチバミ』をしよう」などと言い出したのは名雪だった。
 香里と名雪と祐一と北川、いつもの4人組で勉強会をしていて、香里が「それじゃ、ちょっと休憩しましょうか」と言った直後だった。
 突然何を、と思ったのは香里だけではなかったらしく、祐一も面食らったような表情をしていた。
「いきなり何を言い出すんだ名雪。っていうか、『オチバミ』ってなんだ?」
 それはね、と楽しそうに名雪が説明する。
「お花見ってあるでしょ? あれの『お花』を『落ち葉』に変えただけだよ」
「普通、そういうの『紅葉狩り』って言わないかしら?」
「そうだけど。でももう秋っていうより冬だし、落ち葉がヒラヒラ舞ってるは奇麗だと思うよ」
 お花見ならぬ落ち葉見。香里は、そんな言葉あるのかしら、という疑問を抱きつつも、「名雪らしいわね」と微笑ましく思った。
「で、突然何でそんな事を言い出したんだ?」
「だって最近、勉強勉強って疲れちゃったんだもん。たまには息抜きがしたいよ」
 うー。と唸りながら机にだらしなく伸びる名雪。ウンウンと頷いている辺り、北川も名雪と同意見なのだろう。
「そうだなー、確かにそれも良いかもな」
 どうやら、祐一も乗り気なようだ。
「じゃあ、時間と場所は――」
 既に決定したかのように進めていく三人に、「しょうがないわね」と香里も会話に加わっていった。






 
〜 謝辞 〜







 美坂香里は、肩に張りついた枯れ葉を払いつつ溜め息をついた。
 それに目ざとく気がついたのか、香里の前を歩いていた相沢祐一が肩越しに振り返る。
「なんだ、もうバテたか?」
「そうね、もう疲労困ぱいよ」
 香里は肩をすくめて、自らの吐く白い息が霧散していくのを眺めていた。
 まだ始まったばかりだというのに、冬の気候は身を刺すような寒さをもたらしている。
「運動不足だな。受験勉強ばっかりしてるからだぞ。たまには俺達を見習って朝から元気に――」
「それは嫌」
 香里は祐一の言葉を遮ってそう言ってから、からかうような口調で尋ねた。
「それにしても、あたしは相沢君が仕方なく名雪に付き合ってるんだと思ってたんだけど」
「当たり前だ。それ以外に何があると」
「『俺、走るの好きだから』。とか」
「それは誰の真似のつもりだ……」
「さあ?」
 祐一は呆れたような顔をしながら、先程までと同じように歩き始めた。
 踏みしめる幾層にも重なった落ち葉が奏でる音と、時折吹き荒ぶ風の音を聞きながら、2人は黙々と獣道を歩きつづけている。前を歩く祐一は、何処か目的地があるのか歩調を弛めず山を登っている。
 香里は足元に下げていた視線を上げた。
 木々の間から見える太陽はまだ頭上の高いところにあり、正午を回ってあまり時間が経ってない事がうかがえる。日が沈むまでに帰れない、などという事はないだろう。
 背後を振り返ってみると、やはり木々の合間から、自分達の住む街並みが小さく見える。
 風に揺られ落ちてくる葉は、さながら雪のようにゆらゆらと舞っている。地に落ちた枯葉の層も積もった雪のようで、足を踏み出すたびに柔らかく僅かに沈み込む。
「さて、着いた」
 しばらくして突然聞こえた祐一の声で前に向き直ると、少し開けた場所に出ていた。先程までとは違い、木々で遮られていない為、空から照らす日差しが少々目に眩しい。
 祐一はそのまま開けた場所の中央へと歩いていく。香里もその後を追う。

 そこには、大きな切り株があった。




「ごめん香里、明日駄目になっちゃった」
 香里に名雪からこう電話がかかってきたのは昨日の事である。
 なにやら、どうしても抜けられない用事ができたようだった。仕方のない事なので、「そう、残念ね」と香里は返した。
「それでね、北川君も何か用事ができちゃったみたいで。だから、オチバミはまた今度って事で、いいかな?」
「別にいいわよ」
 そもそも、皆で行かなければ意味のないイベントなのだから異存がある訳がなかった。
 それから少々世間話をして電話を切った後、予定が空いた休日をどう過ごすか考えてみた。
 ――勉強するのもいいけど、名雪が言った通り、ちょっと息抜きしようかしら。
 そんな風に思い、心の中で頷いてから、香里は電話に出て途中になっていた問題集に意識を戻した。




 香里と祐一は並んで切り株に腰掛けていた。2人が余裕を持って座れるほど、その切り株は大きかった。
 特にする事もなく、隣にお互いの存在を感じながら景色を眺めている。
 唐突に、祐一が口を開いた。
「なあ、香里」
「なに?」
「どうしてこんな所までついてきたんだ?」
「どうしてって……なんとなくかしら」
 本当に、明確な理由などなかった。ただ、街をブラブラと散歩していたら、祐一に出会い、なんとなくそのまま付いてきた。それだけだった。強いて挙げるなら、どこに行くのかと聞いたら「オチバミ」等と答える祐一の表情が、どこか儚げだったのが気になっただけだ。
「相沢君こそ、何でこんな所に?」
「オチバミ」
「それはもう聞いたわよ」
 香里が軽く睨むと、祐一は肩をすくめて苦笑した。
「まぁ、空いた予定を優雅に過ごそうと思ってな」
「こんなところで? しかも、一人で?」
「ああ」
「暇人ねー」
「そんな所についてくる香里もな」
「まぁ、そうね」
 それっきり、また会話が途切れた。
 いつもならば、もっとくだらない事を言ってくるだろう祐一が、妙に大人しい。香里は疑問に思って祐一の顔を伺うが、ただじっと前を見つめているその表情からは何も読み取れない。
 香里は声を掛ける事ができず、視線を祐一から外した。
 風が吹くたびに、サラサラと木の葉が舞い落ちてくる。ずっとその様子を見ていると、永遠にその光景が続くように思えてくる。
 香里は立ち上がり、数歩進んで立ち止まった。そして顔を上げ、両腕を左右に広げ、辺りを舞う赤褐色の吹雪を一身に受ける。
「凄いわね……」
「そうだな」
 ポツリとした呟きに祐一が応える。それを聞いて、香里が振り返り、意外だ、という表情をした。
「あら、相沢君でもこの光景を奇麗だと思ったりするの?」
 祐一はその言葉に仏頂面になって言い返した。
「そりゃもちろんさ。美を愛する心なら、そんじょそこらの奴には負けないぞ」
「美術の時間に、鉛筆で五重塔を作ったりしてる人が?」
「あ、あれは溢れる創作意欲を満たしてるのであってだな……」
「ふーん」
 呆れたような目で見る香里に、祐一は慌てたように続ける。
「なんなんだその目は。そもそもだ、芸術を楽しむ感性と自然美に感銘を受けるのは、関連性があったとしてもまったく別の……って笑うな!」
 祐一の様子を見ているうちに、香里の顔には自然と笑みが浮かんでいた。それを見て、祐一の表情も苦笑に変わる。
「ったく。会った時から思っていたが、お前は俺をからかうのがそんなに楽しいのか」
「そんな、心外だわ。あたしがいつ相沢君をそんなにからかったっていうの?」
「賞味期限が黒く塗りつぶされたパンとか、色々と遊ばれてたような気がするが……」
「気のせいよ」
「んなわけあるか」
「じゃあ、言葉通りよ」
「意味わかんねーって」
 香里は楽しそうに微笑んでいる。あきらかに、祐一とのやり取りを面白がっているのだ。祐一はふて腐れたような顔をしていたが、ふと、香里を見て表情が緩んだ。
 それに気付いた香里が首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや、な」
 祐一は優しく微笑む。
「自然に笑えるようになったな……って」
 その言葉を聞いて、香里は驚いたような顔をしたが、すぐに元の表情に戻った。肩にかかっていた髪を、後ろに払う。
「そう、ね。いつまでも、立ち止まっているわけにはいかないでしょ。もう、あの子の気持ちを裏切りたくなんて、ないもの」
「そうか……そうだな。『お姉ちゃんは、笑顔でいてください』、か」
 祐一が目を閉じる。その瞼の裏にどんな光景が映っているのか、香里にはよく分った。きっと、自分が思い浮かべているのと、同じだから。
 それはある姉妹の間で交わされた、『最後』の約束だ。そしてその約束は、既に果たされているのだろう。
「相沢君に出会えて、本当に良かったわ」
 それは、紛れもなく香里の本心だった。
「もしも貴方に出会わなかったら、取り返しのつかない過ちを犯したまま、現実に向き合えないまま、一生後悔したと思う」
「俺は背中を軽く後押ししただけだよ。無理矢理手を引っ張っていったわけじゃない。それに、アイツが望んでいた事だったし、な」
「それでも、よ。あの子が死んだ後も、貴方や、名雪や、北川君がいなかったら、もしかするとあたしは、今も塞ぎ込んだままだったかもしれない」
 だから、ありがとう。そんな言葉を込めながら、香里は話す。
「貴方は、強い」
 祐一が閉じていた瞼を上げた。
「俺は、香里が思っているほど、強くも偉くもないさ」
「え?」
 祐一は、僅かな自嘲の笑みを浮かべている。祐一の初めて見せる表情に、香里は戸惑っていた。
「俺自身、現実から逃げていたんだからな」
「どういうこと?」
「要するに、俺と香里は似た者同士だったって事さ。ただ、そうなるのが俺の方が早かっただけでな」
 香里と祐一の視線が交わる。祐一が本当に真剣な時に見せる、どこまでも真っ直ぐな、強い視線だ。
 だから香里は悟った。きっと、今まで誰にも明かした事のないほど祐一にとって大切な何かを、自分に話そうとしているのだと。
「俺が今座ってる切り株だけど、この木がなんで切られたか、香里は知ってるか?」
 まるで2人の邪魔をしないようにと、風が止んだ。






「そう。そんな事が……」
 祐一の話を聞き終わってから、香里は思わずそう呟いた。
「ちゃんと思い出したのは、割と最近さ」
 やれやれとでも言うように、息を吐く。
「だから、無意識にでも、理解してたんだろう。香里が、今のままだと絶対後悔するってな。強くなんてない。むしろ情けない話さ。自分にできなかった事を、他人にはやってもらおうとしてたんだからな――」
「でも」
 それでも、と香里は続ける。言うべき言葉は、自然と浮かんでくる。
「今、相沢君は、そんな現実を乗り越えているわ。その事を、あたしに話す事ができたんだもの」
「そうか?」
「そうよ。いつかのあたしみたいに、重圧に耐え切れなくなって罪を吐露したわけじゃないでしょ?」
 祐一の視線が、香里の目を貫く。何でそんな事が判る、と訴えているようだ。
 その視線を跳ね返すように、香里は微笑んだ。
「顔見てたら判るわよ」
 祐一が、呆けたような顔になった。香里はそれが面白かったのか、クスクスと笑った。
「あのね、相沢君。『乗り越えた』って、貴方が認めた香里さんがそう言ってるのよ? 信じられない?」
「あ、いや……」
「なに、もしかして、気休めでこんな事言ってると思ってる? このあたしが、こういう事に関して気休めとか言うと思う?」
 言わない。祐一はそう思った。目の前にいるのは、『こういう事』で一度激しく後悔している人物なのだ。そしてそんな無責任な事は、性格から考えても絶対に言わないだろう、とも思う。
 何も言えなくなった祐一を見て、香里は満足そうに頷いた。
「なにをウジウジしてるのよ。自分でも本当は解ってるんでしょ、そんな事」
 自分で理解していたと思っていても、他人に言って欲しい事というのは、ある。自己の中で解決している事でも、他者の確認によって、ようやく『自己満足』ではないと、その答えが強固になる事がある。
 そんな事を考えながら、しょうがない人ね。と言って、香里は笑った。
 祐一は、唖然として香里の方を見つめたままだ。
「どうしたの?」
 その言葉で、祐一の硬直が解ける。
「そう、なのかな……」
「そうよ」
 しばらく考えるように俯いていた祐一だが、一つ頷き、それからいつものように香里に微笑みかけた。
「その……サンキュな、香里」
「いいのよ。むしろあたしが――」
 ザア、と今までで一番強い風が吹いた。
 木々の枝が揺れ、大量の葉が空に舞う。地面に積もっていた落ち葉も巻き上げられ、視界を赤褐色が埋めていく。目を開けていられず、2人は瞼を閉じた。
 耳元を吹き抜ける風の音が、それしか聞こえないほどの大きさで続く。
 それからしばらくして、風は緩まった。
 香里が目を開けると、まるで真冬の雪のようにゆらゆらと、バラバラの動きをして枯葉が地面へと落ちていく。
 なびく髪を手で押さえつけながら、香里は視界を埋め尽くすその光景を眺めていた。
「奇麗――」
 思わず、言葉が漏れた。
「そうだな」
 声のした方に顔を向けると、祐一もいつのまにか、切り株から立ちあがってこちらを見ていた。
「本当に、そうね」
 そう相槌を打ってから、香里は自分が先ほど言おうとしていた事を思い出した。
 本当は、自分が言うべきなのだ。並大抵の言葉では言い表せないほど、あたしは貴方に感謝していると。
 どんな言葉なら、その気持ちを正確に伝える事ができるだろうか。
 そんな事を香里が考えていると、それを邪魔するように祐一が口を開いた。
「いや、俺が言ったのはそうじゃなくてな」
「そうじゃなくて、なんなのよ?」
 香里がそう聞くと、祐一は彼特有の、最高の悪戯を思い付いたような笑みを浮かべた。
「この光景自体じゃなくて、その中に佇む香里が奇麗だって言ったのさ」
 香里は目を見開き、硬直したが、それは一瞬の事だった。もう既に、いつもの表情に戻っている。
 ――そうね、気持ちを伝えるなんて、簡単なこと。
 息を吸い込み、これから言う言葉にすべての想いを込める。
 香里は祐一から一歩下がり、正対した。それから、ありったけの、精一杯の微笑みを浮かべる。
 紡がれる言葉は、たった一言だ。

「ばーか」











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