『KanonSS』


 前夜







 唐突に思い付いて、美汐は自分の部屋の窓を開けた。
 少しばかり肌寒い空気が部屋の中に入り込む。それに構わず、美汐は夜空を見上げた。吸い込まれるような深い闇、しかし、それは瞬く星に彩られ、陰湿なイメージはなく、むしろ幻想的なものに見えた。
 言葉も無く星を見続ける。
 星を見るには田舎の方が良い。そんな言葉が頭に浮かんだ。これだけ奇麗に見えているのだから、この街はやはり田舎なのだろうか、とも思う。
 美汐はそのまましばらく星空を眺めてから、視線を下げ、部屋の中に意識を戻す。
 先程まで読んでいて、机の上で開きっぱなしになっていた小説を手に取る。ありふれた、ただの恋愛小説。一瞬どうしようか迷ったが、結局パタンと閉じて本棚に戻した。
 机の上に置いてあった、駄菓子屋でよく売っているような飴玉を一つ手に取り、ベッドに仰向けになる。
 飴玉の包み紙を開ける。カサカサという音が静かな部屋に僅かに響く。美汐は中から出てきたそれを、意味も無く部屋の明かりにかざしてみた。
 普通のものより少し大き目な黄色の球体は、なんとなく満月をイメージさせた。
 口に含む。
 舌の上で転がすと、酸っぱさが口の中に広がった。
 飴玉が歯にあたり、コツッという音がする。固い。
 口の中のレモンの味を味わいつつ、美汐は目を閉じた。






 美汐はその時、学校の中庭にいた。
 何をするでもなく、ゆったりと校舎の合間を縫って吹いてくる風を、一身に受けて突っ立ている。
 風に揺れる髪を撫で付けながら、いったん周りを見渡し、小さく息を吐くと、また元のように前を向いた。
 時間だけが過ぎてゆく。時折、すぐ側にある、校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下を通る生徒が、訝し気に美汐に視線を向けて、去っていく。
 美汐はなんとなく落ち着かない気持ちになるが、その場所を動かない。
 意味もなく突っ立っているわけではなかった。
 昼休みに、祐一から「放課後になったら待っていてくれ」と言われていたからだ。しかも場所の指定付き。
「相沢さんは、いったい何をしているのでしょうか……」
 美汐は思わず愚痴をこぼしてしまう。
 そして、美汐は相沢祐一の事を考えた。
 笑顔でこちらの都合も考えず待っていてくれなどと言ったわりには、一向に現れる気配がない。
 美汐は昼休みの出来事を思い起こす。
 そう、祐一は笑顔だった。心からの笑顔。
 彼は本当に強い人だと美汐は思う。もう、現実を受け入れ、立ち直りかけている。
 もちろんあの子がいなくなってしまった直後は、無理に悲しみを隠したその表情が痛々しかったが、次第とその影は消えていった。
 悲しみのすべてが消える事はないだろう。だがしかし、悲しみに囚われ、何もできないでいた自分とは大違いだ。
 最近、美汐は祐一の笑顔を見ると、心が痛くなる。それは多分、立ち直れないでいた、自分の弱さを見せ付けられているようで……
 コツン。
 いきなり、美汐は頭に軽い衝撃を受けた。
 原因を探し、慌てて周辺を見る。だがしかし、周囲は先程からと何の変わりはなく、原因となるものを見つける事はできなかった。
 美汐は首を傾げた後、思い付いて頭上を見上げた。
 二階の渡り廊下から、祐一が美汐に向かって手を振っていた。
「天野、待たせて悪かった。掃除当番だったんだが、抜け出せなくてな。今そっちに降りるから待っててくれ」
 そう言うと祐一は校舎の中へ入っていった。
 それを確認してから視線を下げた美汐は、自分の足元に何か落ちているのを見つけた。
 屈み込んで拾い上げてみる。
「アメ?」
 それは駄菓子屋で売っているような飴玉だった。先ほど頭に何かぶつかったのは、これだったのだろう。
 美汐が立ち上がるのと同時に後ろから声がかけられた。
「悪い悪い。抜け出そうとは思ったんだが、名雪の奴に見つかっちゃってさ。下手に逆らうとイチゴサンデーを奢るはめに……って天野、何してるんだ? 」
「相沢さん、これは何なんですか?」
 言いながら、祐一に拾った飴玉を見せる。
「ん、ああ。喜べ、レモン味だ」
「そういう事を聞いてるんじゃないです」
 美汐はたいした反応も見せずに更に聞いた。
「クラスの奴から幾つか貰って、残ってたんだよ」
「それで?」
「天野、結構前に『空からお菓子が降ってきたら……』みたいな事言ってただろ? だから降らせてみた」
「そうですか……」
 美汐はあきれたように盛大な溜め息をついた。
「天野にやるよ。それ」
「……ありがとうございます」
 美汐は脱力しながら飴玉を制服のポケットへ入れた。そして祐一の言葉を待つ。
「……」
「……」
 沈黙したまま見つめ合う二人。美汐の方がそれに耐え切れなくなり、口を開いた。
「あの、相沢さん。何で私をここへ呼び出したんですか?」
「ん、ああ……」
 祐一は、美汐から視線を外し、頬を掻きながら言葉を濁す。
「相沢さん?」
 美汐が不思議に思っていると、祐一は突然深呼吸を始めた。そして、思いっきり息を吐いた所で、美汐の方を真っ直ぐと見据えた。
 祐一の様子があまりにも物々しいので、美汐は何が起こるのかと気を引き締めた。
 祐一が口を開く。
「天野、明日デートしよう」
「……何を言ってるんですか」
 いつもの冗談かと思った美汐は、いつもと同じようにあしらったが、祐一の表情は変わらなかった。
「冗談とかじゃない。明日、俺とデートしよう」
 美汐は祐一の目を見る。普段は見せない、本当に真剣な目。冗談では、なさそうだった。
「なんで、ですか……」
 美汐はやっとの事でそれだけの言葉を発した。
「そんなのは決まっている。俺が、相沢祐一が、天野美汐の事を好きだからだ」
 美汐は、言葉を返せない。
 どうしようもなく混乱してしまっていた。祐一が、自分の事を好きだと言ったのだ。その事実は理解できても、頭が拒否しているのか、その意味は認識できない。
「いいか、もう一度言う。俺は、天野……美汐の事が好きだ。だから、明日デートしようと誘った。駄目か?」
 ようやく美汐の思考がまとまり始める。そして、その思考からはじき出されたのは、疑問と、ほんの少しの怒りだった。
「どうして、そんな事を言うんですか。あの子の……真琴の事は……」
 半年以上、暗黙のうちに二人の間でタブーとされてきた名前を、美汐は口に出した。
「真琴の事は、忘れてなんていない。それでも、俺は、美汐の事が好きなんだ」
 美汐は首を振る。
「分かりません。相沢さんが、何故そんな事を言うのか、私には、分かりません」
 美汐はそう言って俯いてしまう。祐一は、美汐から視線を外した。
「俺は、あいつがいなくなってから、色々な人に支えられてきた。名雪や秋子さん、同じクラスの友達とか、他にもたくさんだ。もし、この人達がいなかったら、俺は絶対にここまで立ち直れなかったと思う」
 一瞬、風が強く吹く。
「その中でも、一番俺の支えになってくれた人は、美汐だよ。確信を持って言える。これだけは間違いない」
「私は、何もしていません。相沢さんが立ち直る事ができたのは、私とは違って、相沢さん自身が強かったからです」
「いや、俺は弱いよ」
 祐一は空を仰ぐ。
「真琴が消えてから、俺は絶望に押しつぶされそうになっていた。この世のすべてがどうでも良くなっていたんだ。そんな時、美汐は言ったよな、『相沢さんは強くあってください』って。あの言葉があったからこそ、今こうやって普通に生活できているんだと思うぞ。もし、美汐がいなければ、俺は絶望のまま死を選んでいたかもしれない」
 美汐は、再びグルグルと混乱を始める思考の中から、ゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「それは、ないですよ。相沢さんは、私なんていなくても、きっと大丈夫だったと思います」
 祐一は美汐の方へ顔を向けた。美汐の顔は下を向いたままだ。
「それだけじゃない。最近、ようやく美汐も、天野美汐の本当の笑顔を見せてくれるようになってくれた。自分でも気付いてないみたいだけどな。俺は美汐のその微笑みに惹かれたんだよ」
 美汐は顔を上げる。祐一はやはり真剣な表情で美汐の方を見つめていた。
「わたし……私は……」
「はは。このままじゃ堂々巡りだな」
 唐突に祐一が美汐の言葉を遮った。そして少し早口で続ける。
「そうだよな。美汐も、いきなりじゃあ答えようがないよな。……だったらさ、俺、待ってるよ。明日、駅前のベンチでずっと。もし駄目なようなら、来てくれなくてもいい」
 祐一はそう言うと、美汐から離れ始めた。美汐は呆然と祐一の様子を眺めている。
「でもな、これだけは分かってくれ。今日言った事は、すべて偽りない俺の気持ちだ。そして、俺は美汐の気持ちを知りたいんだ」
「あ……」
「じゃあな」
 美汐が呼び止めようとした時には、もう既に美汐に背を向けて走り出している所だった。祐一はすぐに校舎の影で見えなくなってしまう。
 風が吹き、美汐の髪をなびかせる。
「私の……気持ち」
 それに気付かぬように、美汐は祐一が去っていった方を見続けていた。






 美汐は目を開けた。見慣れた、自分の部屋の天井が目に入る。明かりが眩しくて、少し目を細めた。
 祐一は美汐に対して、「笑顔を見せるようになった」と言った。本当にそうなのだろうか、と美汐は考えた。
 確かに、祐一と知り合ってからの自分は変わったかもしれない。以前とは違い、友人もできたし、一人で塞ぎ込む事は少なくなったのかもしれない。
 それは、自分でも実感できている事だった。
 けれども、本当に心からの笑顔を浮かべる事ができているのだろうか。それも人を惹きつけるような微笑みを。

 分からない。

 しかし、その代わり美汐には一つだけ確信できる事があった。
 もしも、もしも本当に、自分がそのような表情ができるようになっているのだとしたら。きっとそれは――
 開けたままだった窓から、風が入り込んできて、カーテンを揺らした。
 美汐はベッドから起き上がる。そして、明けっ放しになっていた窓から、再び夜空を見上げる。星が奇麗な夜だ。
 そのまま夜空を見上げていると、ふと何処からか、あの子の声が聞こえた気がした。
 美汐は驚いたような表情をした後、星々に向かって優しく微笑んだ。
 窓を閉める。
 美汐は一つ頷くと、そのまま自分の部屋を出た。電話をかけるためだ。
 きっと、祐一も馴れない事をして焦っていたんだろうな、と思う。
 だって、デートに誘ったのに、待ち合わせの時間を決めずに帰ってしまったのだから。
 美汐は受話器を持つと、ずいぶん前に教えてもらって、まだ一度もかけた事のなかった番号をプッシュする。
 しばらく呼び出し音が続いたあと、男の声が聞こえてくた。
「はい、水瀬ですけど」
 祐一の声だ。美汐は、祐一が水瀬家に居候している事も聞いていたので、慌てる事もない。
 美汐は言葉を発するため、ゆっくりと口を開く。


 口に含んでいた飴玉は、もう既に溶けてなくなっていた。









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