『Lの季節SS』
Peaceful morning
弓倉亜希子の朝は早い。そしてこの日はいつもより更に早かった。 季節は冬。当然日が昇るのは遅く、未だに顔を見せてはいない。 トントントン、という包丁がまな板を叩く音が朝の澄んだ空気に響く。既に制服に着替え、エプロンを着けて料理の真っ最中である。 「……ふぁ」 少しだけ手を止めてあくびを一つ。もとより垂れ気味な目が、さらに垂れているように見える。 それでも少しの間眠そうに目をこすった後、料理を再開する。 亜希子はもともと料理をするのが好きだ。実際夕食を作っている時などは、料理の最中に鼻歌を歌っている事も多い。 確かに家庭の事情でやらざる負えないという部分もあるのだが、自分が作ったものを人が食べ、美味しいと言ってくれた時の喜びはなかなか味わえないものだと亜希子は思っている。 いつもより時間をかけた弁当の準備が終わり、次は朝食の準備に入った。 亜希子はともすると前に突っ伏して眠ってしまいそうな状態で包丁を動かしている。普通ならかなり危険なはずだが、手元はしっかりとしている。慣れというか、ある意味才能なのかもしれない。 「……ふぁ……」 再び、キッチンにあくびの音が響いた。 しばらくして亜希子はキッチンを出た。次の仕事が待っているからだ。 エプロンを外しつつキッチンからリビングへ。 「うーん、今日は早く起きたんだけどな……」 壁にかかっている時計を見て亜希子は一人呟いた。せっかく早く起きたのに既にいつもと同じ時間になってしまっている。弁当に時間をかけすぎたのだろう。 そしてリビングから寝室へ。 もう朝日は昇っているが、まだカーテンの開けられていない部屋は薄暗い。 亜希子はカーテンに近づき、開ける。シャッという音と共に室内が明るく照らされた。 「さやかー。そろそろ起きなさーい」 ベッドの上で気持ち良さそうに眠っているさやかの肩を揺らす。もっとも、これぐらいでは起きないのだが。 「さやか。もう起きないと学校に遅れるわよ」 根気良く肩を揺すりつづける。その甲斐もあってか、もぞもぞとさやかが動く。そしてゆっくりと目を開き、体を起こす。 「起きた? もう時間よ、準備しなさい」 さやかは明らかに半分寝ている状態で亜希子の方を見る。かと思うとぱったりと再び布団に倒れ込んだ。 「おやすみ〜……」 スースー、と既に夢の中。世界が狙えるくらいの早業だ。 「……」 亜希子はすっと立ち上がった。そして両手を腰に当て、目を閉じる。口を開け、空気を吸う。 準備完了。 「いい加減に起きなさ―――――――い!!!」 御近所さんも思わず起きてしまうような声が朝の空気を震わせた。 「お姉ちゃん酷いわ。寝ている人間に対してあんな大きな声を出すなんて」 学校への登校途中。白い息を吐きながらアスファルトの上を歩く2人。 「いつまでも寝ているさやかが悪いのよ」 亜希子はにべなく言い放つ。それを聞いたさやかはぷぅっと頬を膨らませた。 「だからってあれはないわ。心臓が止まるかと思っちゃったもの」 「大丈夫よ。さやかの心臓は毛が生えてるくらいに丈夫にできてると思うから」 「……」 さやかは少し驚いて何も言えなくなる。普段の亜希子はこんな事を言う人ではない。 「……お姉ちゃん、もしかして怒ってる?」 「別に怒ってなんていないわよ」 怒ってる。絶対に怒ってる。 さやかは少し反省した。温厚な姉が怒る事なんて滅多にない。お小言を言う事は多いけれど。大人しい人が怒ると滅茶苦茶怖いというのは本当だ。 これ以上怒らせるとどうなるか分からないので、さやかは素直に謝った。 「……えっと、ごめんね。朝はどうしても苦手なの」 自分の姉がそんなことだけで怒っているとはさやかには思えなかったが、それしか思い付かないので謝っておく。 「……」 「ごめんなさい」 少ししょんぼりとした声で再度謝る。その声を聞いて亜希子はそっと溜め息を吐く。 「……いいのよ。いつもの事だし。でも私もちょっと大人気なかったわ。ごめんなさい」 あっさりと和解。それからはいつものように会話をしながら学校に向かう。本当にこの姉妹は仲が良い。 「そういえばお姉ちゃん」 さやかはもうすっかりいつも通りになった姉に、朝起きた時から気になっていた事を聞いてみた。 「なんか今日はいつもより眠たそうだけど、どうしたの? 昨日も寝るのちょっと遅かったでしょ?」 「う、うん……それに、お弁当作るためにちょっと早起きしたから……ね」 さやかの弁当もいつも亜希子が作っている。以前さやかが「交互に作ろうよ」と言った事もあったが亜希子はやんわりとそれを断った。何故なら食べ物ではないものが出来上がるからである。 家ならともかく学校でそんなものを食べる気にはならない。以前亜希子の友人である東由利鼓が、さやかの作った料理を食べたとき「何というか、どこか遠くに飛んでイケそう……」と称した事があるほどの物体だ。舐めてはいけない。 閑話休題。 何故か歯切れの悪い答えを返す亜希子に気付いた様子もなく、さやかは一人盛り上がる。 「わお! だったら今日のお昼御飯は期待してても良いのかな? ただでさえ美味しいお姉ちゃんのお弁当が、いつもより手間をかけて作られてるんだもんね。お昼休み、楽しみだな〜」 「え……えっと、そういうわけでもないんだけど……」 手をパシンと合わせ、ニコニコしながらスキップをし、全身で喜びを表現するさやか。それに対比するように少し俯き喋る言葉が尻つぼみになっていく亜希子。 「え? どうして?」 「ど、どうしてって……」 「ふーん……まあいいけどね」 何故かオドオドする姉を見て、さやかはそれ以上追求するのを止めた。せっかく機嫌が直ったのに、また不機嫌になってもらっては困る。 とりあえず話題を変えてみる事にした。 「でもお姉ちゃん、そんなに眠そうな顔してると、上岡さんに笑われちゃうぞ」 「!!? なな、なんでそこで上岡君が出てくるの!?」 亜希子は突然出てきた上岡の名前に、しどろもどろになってしまう。 「別に私にまで隠す事ないのにな……」 「隠すって……」 さやかの言わんとする事が分からず、首をかしげる。それを見てさやかは「やれやれ……」と首を振る。 「だって、お姉ちゃんって上岡さんの事好きなんでしょ?」 「え、ええ!? ななななな何をいきなり……」 「はぁ……お姉ちゃんって本当に嘘がつけないタイプだよね……」 あまりに分かりやすい反応をする亜希子に対し、思わず溜め息を吐いてしまうさやか。 「だ、だからいつも言ってるでしょ。私は上岡君の事は嫌いじゃないけど、好きとかそういう……」 「顔をそんなに真っ赤にしながら言っても、説得力というものがまったくないわ。お姉ちゃん」 「……」 何も言い返せず沈黙してしまう亜希子。そうなってしまう事こそが、今さやかが言った事が事実だと認めてしまうのと同じ事だというのに気付いていない。 アドバンテージを得たさやかは更に続ける。 「あーあ、なんかお姉ちゃん達を見てるともどかしくなってきちゃうのよね。もっと積極的になってもいいのに」 「ちょ、ちょっとだから……」 「まあ、お姉ちゃんの性格を分かっていながらリードしてあげない上岡さんも悪いんだけど」 「……」 「さやかも上岡さんの事は『お兄ちゃん』として好きだし、別に時間がかかってもいいんだけどね〜」 「もう! いい加減にしなさい!!」 「きゃー! お姉ちゃんが怒ったー!!」 朝の通学路で全速力での追いかけっこが始まった。 「うー、お姉ちゃん酷いわ。何も本気で叩く事ないのに……」 さやかが片手で頭を撫でながら文句を言った。 「はぁ、はぁ……お姉ちゃんをからかうさやかが悪いのよ」 もともと運動が得意ではない亜希子は息が上がっていた。それに対してさやかはけろっとしている。ブラバン部員の肺活量は伊達じゃない。 「見ててもどかしいのは本当なのに」 「……さやか」 「……」 今日の亜希子は虫の居所が悪いらしい。何か思う所があるのかいつもよりカリカリしている。氷のように冷たい姉の声を聞いて、これからは下手な事は言わないようにしようとさやかは心に誓った。 「……ん? あれって上岡さんじゃない?」 学校もかなり近くになった時、さやかが前方を指差さした。 そちらの方向にはさやかの言う通り、亜希子のクラスメートであり、亜希子がよく会話を交わす唯一と言ってもいい異性の友人、上岡進の後ろ姿が見える。 「そうみたいね」 「上岡さーん、待ってくださーい!」 さやかが声を上げ、上岡の方へ駆けていく。亜希子は最初少し迷っていたが、すぐにさやかの後を追いかけた。 上岡の右側に亜希子が並ぶ。すでに上岡の左側では、さやかがぴったりとくっ付いていた。 「おはよう。亜希子さん、さやかちゃん」 「おはようございます、上岡さん」 「うん、おはよう。上岡君」 挨拶が終わったと思えば、上岡が亜希子の顔をじっと見ていた。それに気付いたさやかが茶化す。 「……あら? 上岡さん、こんな朝からお姉ちゃんの顔を真剣に見詰めてるのね。さやか妬いちゃうな〜」 「ちょ、ちょっとさやか!!」 さっき誓った事を既に忘れているさやかに、亜希子は顔を真っ赤にして声を上げる。しかし上岡の方はもうこういう事には慣れているのか、まったく動じていなかった。 「いや、ちょっとね。亜希子さんなんか疲れてるみたいだから、どうかしたのかなって」 「お姉ちゃん、今日はいつもより早く起きたみたいだから」 亜希子が口を開く前に、さやかが答えた。 「そうなの? 亜希子さん前に倒れた事もあるんだからさ、無理はしちゃ駄目だよ」 「そうそう、お姉ちゃんだって私と同じくらい朝苦手なのに。もう少し楽してもいいと思うわ」 「……うん」 上岡は本当に心配そうだ。さやかも上岡に乗ってくる。そんな2人に亜希子も素直に頷いた。 「でも、お弁当を作らなきゃ駄目だから、どうしても朝は早く起きないと駄目なのよね……」 「だから、さやかも手伝ってあげるって言ってるのに『駄目よ、あなたは絶対に起きれないでしょ』とかいっていつも拒否するんだもの」 「うーん、僕は亜希子さんの意見に賛成だなぁ」 「あー。上岡さんひどーい!」 亜希子が断る本当の理由を分かっている上岡は当然のように亜希子の味方をする。 「ふーんだ。さやかはどうせ壊滅的に朝に弱いですよーだ」 さやかは少し拗ねたような声を出し、歩調を速めた。 その様子を見て亜希子と上岡は顔を見合わせてクスッと笑った。 「残念ながらここでお別れですね」 校門を抜けてからさやかが2人から少し離れた。中等部校舎に向かうためである。 「うん、じゃあね、さやかちゃん」 「勉強頑張るのよ」 「分かってますって」 さやかは一度ウインクしてから背中を向け、走り出した―― 「……っと。そうだ」 ――と思えば、急に立ち止まって振り返った。 「お姉ちゃん」 「どうしたの、さやか? 早くいかないと遅れるわよ」 早くいかないと遅れるのは自分達も同じだが、律義に亜希子も立ち止まる。もちろん一緒に上岡も。 さやかはいつものように微笑んでいる。ちらっと上岡の方に視線を動かしたがすぐに亜希子の方に戻した。 「お姉ちゃん、夜遅くまで悩んだ上に、朝弱いのにせっかく早起きまでしたんだから、ちゃーんと結果を出してくれないと駄目だからね」 亜希子はきょとんとしていたが、すぐに神妙な顔になる。 「さやか……あなたまさか……?」 「じゃあねー。結果報告、楽しみにしてるからー」 今度こそさやかは走り去っていった。 「まったく、あの子は……」 何時からかは分からないが、きっと気付いていたのだろう。あの子は本当に頭がいいから。そう悟った亜希子は穏やかな笑顔を浮かべていた。 そして自然と先ほどまで感じていた不安のようなものはなくなった。今なら何でもできるような気がする。亜希子は自分の気持ちが高揚しているのが分かった。 「亜希子さん、何の話?」 事情のまったく分からない上岡が当然の疑問を投げかける。 「ううん、こっちの話しだから。……上岡君、遅れちゃうから早くいこう!」 「え。ちょ、ちょっと亜希子さん!」 亜希子は上岡の手を取り走り出す。普段の亜希子では絶対にできない行動に上岡も戸惑う。 予鈴が鳴る。 「ほら! もう時間ないよ!」 しっかりと握られた手は、離される事はない。 「上岡君!」 「え、何?」 今だ混乱したままの上岡に笑顔を。 そして、心の中では大切な妹に謝辞を。 「今日のお昼休み、楽しみにしててね!!」 よく晴れた、とある日の朝の出来事だった…… |
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