『Lの季節SS』


 弁当と笑顔と


 ※ネタバレ注意





 星原百合は美人である。

 端整な顔立ち。均整の取れた肢体。腰まで届く長い髪は漆黒で、それを風になびかせつつ淑やかに歩く姿はとても奇麗で、すれ違う人は思わず目を奪われるだろう。
 外見だけではない。星原は大人しいタイプである。無口、というわけではないのだが、どことなくボーッとしている印象を受ける。
 それは、動作の一つ一つが滑らかで穏やかに見えるせいかもしれないし、表情と、どこか遠くを見ているように感じる、その瞳のせいかもしれない。
 ともかく、その仕草や外見から、どこぞのお嬢様のような雰囲気が星原にはあった。
 上岡進の親友である井上武が、星原のイメージを称する際に、「窓際でボーッと外を眺めてる感じだな。小鳥とかが寄ってきたりしてな」と答えたことがある。おそらく、多くの人が星原にはそういったイメージを持っているであろう。

 しかし、この評価は井上のものを除けば、ごく最近になってのものなのである。

 去年の秋までの星原はいつも一人で、感情を表に出さず、他人に関わろうとせず、関わったとしても最小限の会話しかしなかった。これは、星原自身の大きな変化を、周りの人物に意識させないようにするための、やむを得ない手段だったのだが、それが災いした。
 この態度のために、星原は悪質な噂の槍玉にあげられていたのである。しかも、星原がそれに対して弁解もなにもせず放っておいたため、上岡が今の星原と初めて会った頃の評判は、最悪に近いものであった。
 しかし、あの事件が終結した今となっては、他人に対して壁を作る理由もなくなった。だから、あの事件の前とは違い、星原自身も積極的に皆に溶け込もうとしていたのだ。
 事件に関する記憶は、天羽、星原、上岡以外の人物には残っていない。よって、最悪の状態にまで悪化していた星原の噂も必然的に薄らいでおり、星原の元々の性格が良かったのか、難なく学園生活に溶け込むことができた。今では以前から仲の良かった天羽や弓倉の他にも友人が多い。
 そして、事件の起こった秋が過ぎ、冬が過ぎ、新しく春を迎えてそろそろ夏の気配が感じられるようになった今、最初に述べたようなイメージを、いつのまにか多くの生徒が星原に対して抱くようになったのである。

 有り体に言ってしまえば、星原百合は男女を問わず人気が高い。




 そんな事を思いつつも。
 今現在、上岡は悩んでいた。
 事象というものは、必ず何かしらの原因があるものだ。
 原因があり、過程がある。だからこそ「結果」が現われるのだ。
 だとすると、今陥っている状況も、何かしらの原因があったに違いない。
 上岡は改めて自分を取り巻く現状を確認してみる。
 時間は昼休み、場所は教室、上岡と星原が一つの机を挟み、向かい合っている。
 それは、いい。問題は……
 上岡は教室の中を見渡した。教室中の意識が自分たちのほうを向いている。あからさまにこちらを見ているのは半分ほどだが、時折チラチラと視線を向けてきたり、いつもは大きな声で喋るのに夢中になっているはずのグループが、今はヒソヒソと声を潜めながら弁当を食べていたりする。
 特にこちらを睨み付けている半分……男子生徒からの視線が痛い。というより、攻撃的で、恐かった。
 上岡は視線を落とした。その先には机の上に並べられた弁当箱が二つ。
 複雑な感情を抱きつつ溜め息を一つ。そして思い出されるのは数日前の、やはり昼休みの記憶だった。






 
〜弁当と笑顔と〜







 屋上は雲一つない天気とあいまって、暖かい。そして時折吹く風は緩やかに肌を撫で、思わず目を細めたくなってしまうほど心地良い。
「風が気持ちいいですね、上岡さん」
「うん、ここにきて正解だったね」
 上岡は星原に同意しつつ、屋上の入り口から少し離れた、フェンス際に座る。星原も上岡が座った隣にハンカチを下に敷き、その上へと座った。
 学校での昼休み。今日は天気が良いからと、屋上へ昼御飯を食べにきたのだ。
 ちなみにこれを提案したのは天羽だが、天羽自身は日直で仕事が残っていたため、ここへはもう少し遅れてくる事になっている。
 上岡が見渡すと、同じことを考えている人もいたらしく、屋上には他にも何人か弁当を食べている人がいた。
 早速、上岡はアンパンとパック牛乳という、定番っぽい昼飯を袋から取り出す。
 星原は上岡とは対照的に、ピンク色の布に包まれた、れっきとした弁当箱と、紅茶の入った、星原のトレードマークともいえる魔法瓶を取り出した。
「天羽さん、先に食べてていいって言ってたし、食べよっか?」
「そうしましょうか」
 それを合図に二人はそれぞれの昼御飯を食べ始める。
 しかし、アンパン一つしかない上岡は、すぐに食べきってしまう。手持ちぶさたになってしまい、パック牛乳を吸いながらなんとなく星原のほうを眺める。
「天羽さん遅いね」
「そうですね」
 そんな事を話していると、上岡は自然と弁当へと目が引き寄せられた。星原の弁当は卵焼きやミニのハンバーグなど、定番どころが揃っている。流石にタコさん型のウインナーはなかったが、かなり美味しそうだった。
 上岡が見つめているのに気が付いたのか、星原が箸を止める。
「上岡さん、どうかしましたか?」
「いや、その卵焼きおいしそうだなぁ、と」
 上岡は正直に言った後、しまったと思った。これでは遠回しに催促しているみたいではないか。
 フォローをしようと上岡が口を開く前に、星原がクスリと笑い、聞いてきた。
「なら、食べますか? 卵焼き」
「あ、うん。……頂くよ」
 上岡は、恥ずかしいながらも、食べてみたいという欲求に耐え切れず、そう答える。そして、差し出される弁当箱へ手を伸ばし、卵焼きを手に取ろうとした。
「あ、ちょっと待ってください!」
 珍しく慌てた調子で星原が言い、弁当箱を引っ込めた。
 どうしたのかな、と上岡が思っていると、星原は手に持つ箸で弁当箱の中にある卵焼きを一切れつかむ。
 そして、左手が添えられたそれは、上岡の顔の前へと差し出された。
「どうぞ」
「どうぞ、って……」
 上岡は戸惑う。それはそうである。今二人は隣同士に並んで座り、間には一つの弁当箱が置かれ、目の前の女性が上級の笑顔を浮かべながら、箸に掴んだ卵焼きを自分に食べてもらおうとしている。これは、かの有名な「はい、あ〜〜ん」というやつではあるまいか。
 差し出された卵焼きを見ながら、固まったままの上岡に、星原が追い討ちをかけた。
「口、開けてくれないと食べられませんよ」
「いや、その、それは流石に恥ずかしいっていうかなんというか……」
 上岡は乾いた笑いを浮かべながら、できるだけ穏便に抗議する。言った通り、いくらなんでも恥ずかしすぎる。しかも、こちらの状況に気付いたのか、屋上にいる何人かの生徒が上岡と星原のほうに注目していた。
 それに気付いているのかいないのか、星原はやさしく微笑み、直球勝負で挑んできた。
「私、一回やってみたかったんです。こうやって上岡さんに食べさせてあげる事」
「えーっと、あの、その……」
 しどろもどろになる上岡。
「……」
 今度は、少し悲しげに表情を変え、目で訴えかけてくる星原。
「あ、あうぅ…………分かった」
 上岡に勝てるわけがなかった。情けない顔で降参の声を上げる。
 それを見た星原は元の表情へと戻り、再び箸で掴んだままだった卵焼きを差し出してくる。
「はい、あ〜〜ん」
「……あ〜〜ん」
 とんでもなく恥ずかしい気持ちを抱きつつ上岡は食べた。今、自分の顔はリンゴみたいに赤くなっているんだろうなと思う。周りで小さな歓声が上がったが、気にしないことにした。
「どうですか?」
 少しだけ不安そうにしながら、星原が上岡に聞く。
 上岡はすべてを飲み込んだ後、笑顔で答えた。
「……うん、美味しいよ。お世辞とかじゃなくて本当にさ」
 本当にお世辞ではなく美味しかったので、上岡はそう言った。
 星原は少しだけ嬉しそうに微笑むと、もう一つ卵焼きを箸で掴む。
「それでは、もう一つどうぞ」
「え、でも星原さんのがなくなっちゃうよ」
「いいんです。上岡さんもあのパン一つだけだとお腹が空くでしょう?」
 上岡の言葉に答えになってない答えを返して、星原は先程と同じように上岡の顔の前へと卵焼きを持ってくる。
「はい、どうぞ」
 やはり笑顔だった。
 反抗しても仕方がない(というか、できない)、と悟った上岡は、そのまま卵焼きを口に入れる。
「美味しいですか?」
「うん」

「あ、熱いわねぇ。なんかここだけ一足先に夏に突入してるみたいに熱いんですけど」

「!!? ゴフッ、ゲハッ、ゴホゴホ……」
 突然現われた天羽の声に、上岡は思いっきりむせた。
「あ、碧ちゃん。少し遅かったね」
 星原は特に驚いた様子も見せずに、天羽へ話しかける。
「そうね、ちょっと手間取っちゃって」
「碧ちゃんもここ座ったら?」
 星原の言葉に天羽は肩をすくめる。
「なんか、私ここでお弁当食べてると、熱気にあてられてダウンしそうだから、やっぱり部室で食べるわ」
「そう?」
「ええ。百合ちゃんはそのまま二人っきりで頑張っちゃいなさい。邪魔物は消えるから」
「分かった。頑張るね」
「そうしなさい。じゃあね、百合ちゃん」
「うん、また後でね」
 天羽はそのまま、出てきたばかりの校舎の中へと帰っていく。中へ入る際、星原に向かって親指をぐっと立てた。
「上岡さん。紅茶どうぞ」
 星原は天羽を見送った後、いまだ咳き込んでいる上岡の背中をさすりながら、紅茶の入ったコップを渡す。
 上岡は目尻に涙を浮かべながらそれを受け取り、一口飲んだ。咳が少し落ち着く。
「……ああ、びっくりした。って、あれ? 天羽さんは?」
「ここは暑いから、やっぱり部室で食べるそうです」
 キョロキョロとあたりを見回す上岡に、星原が答えた。
「そ、そう……」
 きっと、『あつい』の漢字が違うんだろうな。などと思いつつも、上岡は表面的には納得したように頷いておく。
「上岡さん」
「ん、何?」
 星原が上岡の顔を見ていた。上岡は真っ直ぐ見つめられて、内心の動揺を必死に押さえる。
「上岡さんは、いつもパンですよね」
「え? ああ、うん。親は作ってくれないし、自分は料理できないし……」
 星原は少しだけ首をかしげる仕草をしたあと、何か名案を思い付いたかのように手を打った。
「それなら、今度私が作ってきましょうか? 上岡さんの分も」
「え、ええ!? いや、確かに嬉しいけど、なんか悪…………ああ! いや、嬉しいよ! お願いするよ星原さん!!」
 上岡が話すと共に大袈裟なほどに落胆していく星原をみて、上岡は慌てて言いなおす。
 それを聞いたとたんに星原は笑顔に戻る。むしろ今のが演技ではなかったのかと疑いたくなるほどだ。
「良かった。それでは今度作ってきますね」
「ありがとう。嬉しいよ」
 嵌められたような気がしつつも、上岡の言葉に偽りはない。
「腕によりをかけて作りますから」
 そして、嬉しそうに微笑む星原の笑顔にも、偽りはなかった。


 そして数日後。
 午前最後の授業が終わり、上岡はやっと終わったとばかりに大きな欠伸を一つする。
 そのまま昼飯となるパンでも買いに行こうかと、近くにいた友人に声を掛けようとした。
「上岡さん!」
 その時、教室によく通る、涼やかな声が響いた。
 上岡が声の聞こえた方を見ると、星原が少しだけ駆け足でこちらに寄ってくるところだった。
 上岡の正面に到着した星原は、上がった息を深い呼吸で静める。
「何かあったの? 星原さん」
 そう聞いた上岡に、息が落ち着いた星原は、笑顔を浮かべながら言った。
「この前に言った通り、お弁当を作ってきましたから、一緒に食べましょう」
「本当に作ってきてくれたんだ。ありがとう…………って、ちょっと声が大きいよ!」
 星原が入ってきた時の声で、教室がある程度静まっていたため、先程の言葉は隅々まで届いたようだ。上岡が気付いてあたりを見たときには、すでにクラスの全体から注目を浴びていた。






 要するに。避けようがなかったわけだ。
 記憶に残る場面を回想していた上岡が、諦めたように溜め息を吐いた。
 確かに約束をした。以前に少しだけ食べた感じだと、味の方も問題ないだろう。
 上岡はもう一度顔を上げ、周りを見る。男子生徒の妬みの視線。そして、複数の女子生徒からのヒソヒソとした話し声。そして何故か片手にカメラを持って、こちらに手を振っている天羽碧。何してるんだ、と思わなくはなかったが見なかったことにした。
 弁当を作ってきてくれる事自体は嬉しい。だがしかし、この中で弁当を食べる度胸は上岡にはなかった。
 やっぱり、新聞部の部室で食べよう。
 そんなことを思い、声を掛けようと星原の方を見た瞬間、上岡は凍った。
「上岡さん。もしかして、食べるのが嫌なんですか?」
 教室内が静まり返った。
 ヒソヒソと話していた声は消え、向けられていた妬みの視線は憎悪のそれに変わり、天羽はシャッターを切った。何に使う気だ、と上岡は思ったが、それどころではなかった。
 星原が泣きそうな顔になっていたのだ。
 沈黙。視線。重圧。そして悲しそうな目でこちらを見ている星原の瞳。もやもやとしたものが上岡の頭の中を駆け巡る。
 一瞬で上岡の中で何かが音を立てて崩れた。
「そんなことないよ。じゃあ食べようか!」
 星原にそう言って笑顔を向けると、上岡は弁当の包みを開けた。
 すでに迷いはなかった。妬みたいやつは妬め、と思った。
 星原には笑顔の方が似合う。哀しい顔なんてさせたくはない。
 もとより選択肢は一つしかなかったのだろう。ならばその選択肢をとっとと選ぶべきだったのだ。
 上岡は箸を取り、弁当の中身に手をつける。まずは前にも食べた卵焼き。
「どうですか……?」
 上岡は答えずにそのままそぼろの御飯へと手をつける。そしてそれを味わい、飲み込んでから、今上岡が浮かべることのできる最高の笑顔を作り星原に言った。
「本当に美味しいよ。ありがとう、星原さん」
 何か周りで黄色い声が上がったような気がしないでもないが、そんな事はどうでもいい。
 上岡の言葉を聞いた星原は、こちらも今までに見たことのないほど爽やかな微笑みを上岡に向ける。
「良かった。頑張って作った甲斐がありました」

 この微笑みだけで御飯3杯はいけそうだった。










 ……数十分後、星原が自分の教室に帰ってから、
「てめぇ、羨ましいぞ」
「この幸せ者がぁ!!」
「上岡、短い付き合いだったな……」
 と、上岡が他の男子生徒から小突かれまくったのは言うまでもない。









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