『KanonSS』


 「cherry blossom」  前編







 春のうららかな午後の空を、爽やかな笑顔で友人と談笑しつつ下校している生徒を、そして校庭の隅に植えられている満開の桜を、むくれた子供のような顔で校舎の窓から睨みながら、廊下を歩く女生徒がいた。
 室井沙耶という名をしたその女生徒は、視線を校舎の中へと移し、歩きながら、両手で抱えたダンボールの箱をちょっとだけ泣きそうな顔で見つめた。
「何で私がこんなの運ばなきゃならないんだろう」
 自分の素直な気持ちを口に出してみるが、状況はまったく変わらない。両手にかかる重量は着々と自分の体力を奪っていくし、先ほどこの任務を言いつけた教師の憎たらしい顔はちらちらと頭をかすめるし、その教師の授業で居眠りをする切っ掛けとなった、昨晩遅くまで読んでいた結末があまりにもくだらない推理小説の事も頭から離れないし、先ほど別れた友達の、これ以上ないほどの笑顔も神経を荒立てる。
 教師に仕事を言い付けられた事をちょっと友達に愚痴ってみたら、「良かったじゃないですか、沙耶ちゃん。放課後を教師の手伝いで過ごせるとは! 有意義な時間を送れますね!」などとのたまった。
 それを聞いて、半眼で「なら手伝うか代わらない? あなたも有意義な時間を過ごしましょうよ」と沙耶が誘うと「私、沙耶ちゃんみたいに腕力ないですからその内容は無理」と遠慮されてしまったのだ。
 手を振りながら去っていく友人を見ながら、アイツ、いつかシバこう。と硬く心に誓い、沙耶は現在の任務に取り掛かったのだった。いつも一緒にいるもう一人の友人も、今日は用事があるとかで早々と帰ってしまっていた。女の友情などそんなものである。
 ちなみにダンボール箱の中は、なんだかよく分からないアンモナイトの化石らしきものや、何に使うのかまったく分からない金属の棒などで、今沙耶が運んでいるのは3箱目である。全部で5箱あるので、やっと半分、といった所だ。
 3階の資料室がいっぱいになったらしいので、1階の方へ少しばかり移す事になったらしい。
「居眠りしたのは悪かったけれども、か弱い女の子にこんな力仕事をさせるのは教師としてどうなんだ」
 という趣旨で最初はもちろん沙耶も反論したのだが、
「あー、確か君は去年私が受け持っていた授業で、課題を出した割合が1割を切っていた様な……」
「喜んでやらせていただきます」
 やぶへびだった。
 階段に差し掛かる。ダンボールが邪魔で足元が見えないので、慎重に階段を降りているのだが、これが結構つらい。
 いい加減に腕がしびれてくる。3箱目に取り掛かる前に休憩を入れれば良かったと沙耶は後悔した。
 自分の境遇を悲しみ、「うー」と唸る。自分を置いて帰ってしまった友人には、今度百花屋辺りで、チョコレートサンデーでも奢ってもらうことにしよう。たまにはストロベリーサンデーもいいかもしれない。
 スカッ
「え?」
 そんな事を考えていたため足元が疎かになっていたのか、階段を踏み外した。
 沙耶は自分の間の抜けた声を聞きながら、体勢を立て直そうとするも、抱えたダンボールの重量のせいでそれも叶わない。
 一瞬のうちに元凶の教師と、自分を見捨てていった友人2人の顔が頭に浮かび、その顔に罵詈雑言を浴びせてやろうとしたが、思い付く前に身体が傾きだした。
 ヤバイ、と思いながら目を瞑る。
「おっと」
 男子生徒の声と、何かにぶつかったような感触と共に、沙耶の動きが止まった。恐る恐る目を開く。
 そして、助かった、と安堵の息を吐く。そこへ先ほどの声がまた聞こえた。
「なぁ、できれば早く体勢を整えて欲しい。ダンボールの重みプラス、一人の体重の半分ほどを支えつづける事は、いかに俺でも無理だ」
「へ? あ、ご、ごめんなさい!」
 状況を理解した沙耶は、急ぎ寄り掛かってしまっていた身体を戻し、一旦ダンボールを下に置き、助けてくれた人物へ向き直った。
「ありがとうございました。あの、怪我、とかはないですか?」
 沙耶の言葉を聞くと、その男子生徒は軽く笑みを浮かべた。
「ああ、全然平気だよ。そっちこそ怪我はないのか?」
「大丈夫です。おかげさまで」
「そっか、それは良かった」
 満足そうに頷くその男子生徒の顔に、沙耶は目を引きつけられた。なにか、自分の中でモヤモヤとしたものがある。喉に小骨が引っかかってしまったような、そんな感覚。
 ――えーっと、確か……
「それにしても、女の子がこんな重いものを一人で運ぶなんて、力に自信があるならともかく、無理があるぞ」
 その男子生徒の声に思考は中断された。
「あ、えっと」
「大方どこかの先公にでも頼まれたんだろうけど、友達とかに手伝ってもらえば良かったのに」
「それは――」
「ま、いいや」
 男子生徒は一人で捲くし立てたあと、「よっ」という掛け声と共に、下にとりあえず置いてあったダンボールを抱えた。
「どこに持っていけばいいんだ?」
「はい?」
 沙耶は男子生徒の突然の行為に、思考が付いていってなかった。馬鹿みたいに男子生徒の顔を見つめる。
「だから、これ。どこに持っていくんだ? そこまで俺が持っていってやるよ」
「そ、そんなの悪いですよ」
「いい、いい。このまま放っておくと、あとの事が気になって夜も眠れなそうだ。そうなったら責任とってくれるのか?」
 男子生徒は物凄くイイ顔で微笑んできた。悪戯っぽい子供のような、それでいて、優しさを称えた笑み。何かが、沙耶の中で弾け飛んだ気がした。
「……」
「おーい、どうした? やっぱりどこか怪我でもしてたのか?」
 顔を真っ赤にしたまま、動かなくなった沙耶を気遣うように男子生徒が声をかける。
「い、いえ! なんでもありません!」
「そうか? それならいいんだが」
 男子生徒は少し納得のいかないような顔をしているが、特に気にしていない様だった。
「でも、手伝ってもらうなんて、悪いですよ」
「気にするなって。こっちが好きでやってるんだから。女の子が困ってるんだ、助けるのは当然だろ?」
 男子生徒は既に歩き出している。沙耶は無意識に頭を下げていた。
「あ、ありがとうございます!」
「だからいいんだって。それで、どこに持っていくんだ?」
 立ち止まって振り返った男子生徒に、沙耶はポーッとした頭のままで説明した。
「え、えっと、それは一階にある――」

 室井沙耶、17歳。桜舞い散る4月。普通よりちょっとだけ遅い初恋だった。






「なんか、ベタですね」
 ざわめきで満ちた昼休み。教室の端にある沙耶の机に集まり、三人は昼食を共にしている。ここ、二年三組ではすでに見慣れた光景だ。
 沙耶の弁当箱の中身はまだ少し残っている。先程まで、自分が昨日に体験した、自分の人生を変えるであろう出来事を、友人達に説明していたのだ。
 ちなみに今、沙耶は顔が真っ赤に染まっている。これは昨日の事を思い出して、胸が高鳴っていたのが2割、無理矢理この事を話させた友人に対する不満が2割、先ほどの友人のそっけない一言に対する怒りが6割である。
「なによ。無理矢理話させたくせに。そんな態度取らなくてもいいじゃない!」
「あはは、ごめんごめん。ドラマみたいでカッコイイですねー」
「栞、セリフが棒読み」
 沙耶の友人である、美坂栞は既に弁当を食べ終わっており、今はデザートであるカップのバニラアイスをとろけそうな顔で食している。
 何を言っても無駄だと悟った沙耶は、もう一人の友人に同意を求めた。
「ねえ、みっしーも酷いと思わない?」
「ですから、その『みっしー』というのは、できればやめていただきたいのですが」
 一人優雅に食後のお茶をすすっていた天野美汐は、諦めたような顔でそうこぼした。
「んー、つれないなぁ、美汐は。それは置いといて、酷いと思うよね?」
「まぁ、同情はします」
 縋り付くような目で聞いてくる沙耶に、ずずっと一口お茶を飲んだ後に美汐は答えた。
 この三人は、二年になって急に仲良くなったグループである。
 初めは沙耶と栞の2人であったのだが、美汐と知り合いだったらしい栞が、沙耶に紹介した事で三人組になった。
 そもそも沙耶と栞の仲も、一年の最後、三月の終わりに近くなってからのものであるので、三人ともが長い付き合いではない。それでも性格が合ったのか、人とは一本線を引いた感のある美汐も2人に対しては打ち解けていた。
「しかし、以外ですね。沙耶さん、つい先日までは『男なんて興味ない』とか言っていたような気がしますが」
「美汐ちゃんもそう思いますよね? 沙耶ちゃんったら私に対して『栞、そんなドラマみたいな事あるわけないでしょ。夢から覚めなさい』とか言ってたくせに。ひどいです」
 美汐の言葉を受けて栞が口を尖らせながら言った。その点では言い返せない沙耶は、素直に謝った。
「うーん、それはゴメンって。私が悪かったよ」
「なら、そのお詫びに百花屋でバニラアイスでも奢って下さい」
「ちょっと待ちなさい! どちらかと言うと、人を見捨てて帰ったんだから私が奢ってもらうってのが筋でしょう!」
「何を言ってるんですか、そのおかげで素敵な出会いができたんですから、こっちの言い分が正しいです。当然の報酬です」
「寝言は寝てからにして。栞は何もしてないじゃない」
「あはは、そこはそれで」
「何がそこはそれなのよ……」
「私も、久しぶりに百花屋の餡蜜が食べたいですね」
 2人のやり取りを眺めていた美汐が会話に加わった。
「美汐まで!」
「いえ、奢る奢らないは別として、です。それに、詳しい話も聞きたいですし」
「そうですよね! せっかく沙耶ちゃんにも春が来たんだから。春爛漫、桜は満開って感じです。祝福しますよ」
「あ、ありがと」
「だから、今日は沙耶ちゃんの奢りです。助言もしてあげますから、アドバイス料って事で」
「その点に関しては私も特に異議はありません」
「2人とも酷いー」
 沙耶はイジけたように残っていた弁当の中身を口に詰め込んだ。心なしか肩が落ちている。
 美汐は沙耶のその様子を見て苦笑した。少しからかいすぎたようである。とりあえず話題を変える事にした。
「それで、そのお相手は、どのような方なんですか?」
「あ、それはすぐ知りたいです。愛しの王子様はどんな人なんですか? ちゃーんとクラスと名前くらい聞いたんですよね?」
「うん。残ってた二箱は、一箱ずつ一緒に持っていったから。その時に聞いたよ」
「では、告白タイムといきましょう。その相手は、どこの誰なんですか?」
 栞がそう言いながらマイクのように、アイスを食べるのに使っている木のスプーンを差し出してきた。なんだかんだ言って、この娘はこのような話題が大好きなのだ。
「えっと、三年一組の……」
「ほうほう。先輩ですか。いいですねー」
 沙耶がふと見ると、美汐も自分の顔をじっと見つめてきていた。表情はいつもと変わらないが、興味津々なのがよく分かった。
 妙に恥ずかしくなり、少し頬を染めながら視線を下げ続きを答えた。
「相沢先輩……って人」
「……」
「……」
 沈黙が場を支配した。面白いくらいに栞と美汐は固まっている。世界の中からこの空間だけが取り残されたかのように、2人はまったく動かなかった。瞬きすらしていない。
 沙耶は何が起こったのか分からず、2人の顔を交互に見た。
 カツンと、栞の持っていた木のスプーンが机の上に落ちるのを合図に、2人は硬直から復活した。
「えぅー」
 しかし、栞は何故か盛大に頭を抱え、机に突っ伏してしまった。大好物であるバニラアイスを残したままで、である。しかも「神様、何故私にこれほどまで試練をお与えになるのですかー」などと呟いている。
「あの、沙耶さん。もう一度、言ってくれますか?」
 かろうじていつもの表情を保っている美汐が、沙耶に問い掛けた。しかし、よく見ると頬には一筋の汗が光っていた。
 沙耶は、面食らいながらも、もう一度、今度は下の名前まで答えた。
「だから、三年一組の相沢祐一……っていう、先輩」
「聞き間違いでは、なかったのですか……」
 そう言うと、美汐までもが机に崩れ落ちた。栞はまだ「いい加減打ち止めだと思ったに、まだ増えるんですかー」などと呟いている。
「えっと、2人とも、どうしたの?」
 沙耶がそう問い掛けると、のろのろとした動きで栞と美汐は机から体を起こした。そして、何故かそのまま立ち上がる。続けて2人で見詰め合う。短いアイコンタクトの後、2人同時に頷いた。
「沙耶ちゃん、私、ちょっと行かないと駄目な所があるから」
「う、うん。行ってらっしゃい」
「沙耶さん、私も用事ができてしまったので行ってきます。スイマセンが、後片付けを頼まれてはくれないでしょうか」
「べ、別にいいよ」
「それでは」
 2人は肩を並べあい、教室を出ていった。沙耶はその様子を見つめていた。どことなく落ち込んでいたように思えたのは見間違いではなかっただろう。
「いったい、なんなの?」
 沙耶のその問いに、答えられるものは誰もいなかった。






 ――いったい、2人ともどうしたんだろう。
 沙耶は一人、夕暮れの商店街を歩いていた。
 本当ならば、栞と美汐と一緒に百花屋に来る予定だったのだが、2人とも揃って「今日はやめにしませんか?」と言ってきたので、予定は流れてしまったのだ。
 奢らずに済んだ事は、財政的には嬉しいが、2人の態度の変わりようがどうにも気になり、なんとなくそのまま帰る気にもならなかったので、商店街へと足を向けてみたのだ。
 特に目的はない。道行く人々を眺めながら、沙耶はゆっくりと歩いていた。
 歩きながら考えている事は、様子がおかしかった友人2人から、一人の男子生徒へと移っていった。
「相沢先輩……」
 考え、口のその名前を出すだけで、体が火照ってくるような気がする。これが恋というものなのだろうか。このようなものならば、栞が嬉しそうに話している甘い恋愛ドラマの事も馬鹿にはできないと思う。
「あれ? もしかして」
 突然後ろから声をかけられた。心臓が跳ねる。振り向くと先程まで考えていた祐一が立っていた。
「よう。確か、室井沙耶、だったよな」
「あ、相沢先輩。こ、こんにちは」
「こんな所で会うなんて奇遇だな。何してたんだ?」
「暇だったので、ちょっとブラブラしていただけです。相沢先輩は、どうして?」
「俺も似たようなもんだよ」
「そ、そうなんですか。……あの、えっと」
「そうだ。もし良かったらさ、一緒に百花屋でも行かないか? 少し時間をつぶしたいんだよ」
「はい、よろこんで! ……って、えぇ!?」
 思い浮かべていた本人が突然現れたので、沙耶の思考はストップしてしまっていた。条件反射で返事を返してしまう。
「よし、じゃあ決まりだな」
 じゃあ、早速行くか。と、歩き始めた祐一だが、沙耶が止まっている事に気付き、声をかける。
「どうした? やっぱりやめるか?」
「い、いえ! 喜んでお供します!!」
 スイッチが入った様に沙耶は祐一に付いて歩き出した。緊張しているのか、右手と右足が同時に出ていた。
 2人、肩を並べて歩く。祐一は堂々と、真っ直ぐ前を見て歩いている。沙耶はちらちらと祐一の顔を覗き見ていた。
 ――奇麗な顔だなぁ。
 夕日が照らす祐一の顔は、沙耶にとって、眩しいほどに輝いて見える。
 沙耶は何度も横目で祐一の顔を覗き見ながら、百花屋へと向かった。




 沙耶と祐一は、テーブルを挟んで向かい合わせに座っていた。沙耶の前にはチョコレートサンデー、祐一の前にはコーヒーが置かれている。
 2人の会話は、やはり昨日のことに集中した。沙耶が何故あのような仕事をさせられていたのか、その理由などだ。
 店内は2人と同じように学生の姿もちらほら見える。百花屋は祐一達の学校で評判のよい喫茶店として、上位にランクインしているのだ。
 校則で、帰り食いは禁止されてはいるのだが、ほとんど守っている生徒などいない。沙耶も、栞や美汐と一緒に学校帰りに寄る事もあった。
「あの、相沢先輩」
 会話が少し途切れた最に、沙耶はふと浮かんだ疑問をぶつけてみる事にした。
「なんだ?」
「どうして、私なんかを誘ったんですか?」
「一人っていうのも虚しいからさ。まぁ、そういう事。今家に帰ると面倒そうだからってのもあるんだが」
 祐一は、何故か困ったような顔になる。
「んーでも、いきなりだったもんな。もしかしてやっぱり嫌だったか?」
「そんな事ないです!」
「そんなに緊張しなくてもいいぞ。何もとって食おうっていうんじゃないんだ」
「す、すいません……」
「だから謝らなくていいって。勘定は俺が持つからさ、気楽にしていいぞ」
「はい」
 頷く沙耶を見て、祐一は何か含むような笑みを浮かべた。
「な、なんですか?」
「室井ってさ。……あ、そうだ。沙耶って呼んでもいいか? こっちの方が呼びやすいんだが」
「いいですよ。私も名前で呼ばれる方が好きですし」
「俺の事も祐一でいいぞ」
「いえ、私は相沢先輩で……」
「そうか? 親しみを込めて『祐ちゃん』とか呼んでもいいんだぞ」
「ゆ、祐ちゃん?」
「そうだ、祐ちゃんだ。ほれほれ、遠慮せずに呼んでみなさい」
 沙耶が戸惑っていると、祐一はほれほれとプレッシャーをかけて追い込んでくる。沙耶はすぐに耐え切れなくなった。
「……ゆ、祐ちゃん」
 ここまで来ると、沙耶の顔はまさに林檎のように真っ赤である。普段の沙耶ならば問題はなかったかもしれない。だが、今回は相手が悪かった。
 沙耶のその様子を見ると、祐一はたまらず吹き出した。沙耶はきょとんとして祐一を見ている。
「いや、悪い悪い。無理せずに『相沢先輩』でいいよ。それにしても、予想通りだな」
「何が、ですか?」
「いじめたくなる所」
「え?」
「いやいや変な意味じゃなくてな、反応が可愛くてついついイジメたくなってしまうって事だ」
「か、可愛い!?」
「ははは、そういう所がだよ」
 沙耶の反応が期待通りだったのか、またもや笑い出す祐一。
 なんて事を言うのだろう、この人は。気さくな人だとは思っていたが、これほどまでとは。何せ会った次の日に既にこれだ。どういう神経をしているのだろうか。ちょっとだけ腹が立った。……それを嬉しいと思っている自分に。
 沙耶は火照ってしまった顔を冷やすかのように、チョコレートサンデーを食べ始めた。
 そして、少し落ち着いてから祐一に少し拗ねた口調で言った。
「相沢先輩って、意地悪なんですね」
「まあ、そうかもな。気分を悪くしたんならスマン」
「いえ、可愛いって言ってくれましたし、嬉しいですよ」
「そう思ってくれるとありがたい。自分でもこういう性格はどうにかならないものかと思ってるんだけどな。他の奴にもよく言われるし」
 チョコレートサンデーを食べつづける沙耶を眺めつつ、祐一もコーヒーを飲む。
 沙耶は食べつづけながら、今日祐一と会ってから思い付いた、とある事を切り出すタイミングを計っていた。そろそろ切り出してもいいのではと思った。
 ともすると上がりっぱなしになる体温を、チョコレートサンデーによってクールダウンしつつ、切り出した。
「相沢先輩」
「ん、どうした?」
「えっと、ですね。今週の土曜日とか、放課後は時間空いてませんか?」
「別に予定はないけど?」
「なら、昨日の事や、今日のお礼に、どこか食事でも御一緒しませんか」
「いや、別に気にしなくていいぞ、そんなの」
「駄目です。このままにしておくと、私の気がすみません。もしそれで寝不足にでもなったら、責任とってくれるんですか?」
 このセリフは、前日に祐一が使ったものとほとんど同じだ。こうなると、祐一も断る事はできない。
「参ったな。ああ、分かったよ。土曜日の放課後だな?」
「はい」
「じゃあ、土曜日はまたよろしくな」
 沙耶が笑顔で返すと、祐一も笑顔で応えた。
 ――いい雰囲気ね。
 恋愛などできないのではないだろうかと思っていた自分が馬鹿らしい。自分には関係ないものだからと、馬鹿にしていたのも愚かしい。実際にはこんなにも胸が躍り、他の事など考えられないほど楽しいものだったとは。そのうち本当に、栞にはお詫びをしないといけないかもしれない。
 沙耶は幸せを噛みしめていた。
「あれ?」
 沙耶は店の外へ目をむけた。通り側の席に座っていたので、外の様子がよく見える。
 手を振ってみる。通りを歩く人々の中に、見知った顔を二つ見つけたのだ。
 相手もそれに気付いたのか、一人が手を振り返し、2人揃って百花屋の入り口へと向かっていった。
「どうしたんだ?」
「友人がいたんです。ここに来るみたいですけど、いいですか?」
「別に構わないぞ」
 カランカランという音と共に2人が入ってくきた。真っ直ぐ沙耶と祐一の方へ向かってくる。入り口は沙耶の正面、祐一の背後方向にあるので、まだ祐一は2人の事を見ていない。
 沙耶は、ちょうどいい機会だから、自分が好きになった人を見てもらえばいいと思った。説明の手間が省けるし、きっと祐一ならばあの2人ともすぐに打ち解けるだろうし、4人で雑談するのはとても楽しいはずだ。
 2人がテーブルの横に立った。
「こんにちは、沙耶ちゃん。……そして祐一さんも、こんにちは」
「結局ここに来る事になってしまいましたね。……相沢さんもお元気そうで」
「よう。なんだ、友人ってのは栞と天野の事だったのか」
 祐一は栞と美汐に向かって、普通に挨拶を返していた。三人が顔見知りだとはまったく知らなかった沙耶は、頭に疑問符を浮かべていた。
「知り合いだったんですか?」
「ああ、2人とも知ってるぞ。こっちが、バニラアイスが主食の美坂栞で、こっちが、やたらとおばさん臭い天野美汐だろ?」
 祐一は栞、美汐、と指差しながら答えた。
「酷いです。祐一さん」
「そうですよ。物腰が上品だと言って下さい」
 栞はニコニコ笑顔を浮かべながら、祐一の隣に座った。目が笑っていないのが少し恐い。美汐もはすべてを悟ってしまっているかのような表情で、沙耶の隣に腰掛けた。
 ウエイトレスが注文を聞きに来る。当然のように栞はバニラアイスを、美汐の方は餡蜜を頼んだ。
 栞はグラスに入った水を、一口飲んで、祐一に先程の笑顔で言った。
「もちろんここは祐一さんの奢りですよね?」
「なんでだ!?」
 祐一が突っ込んだが、栞の表情は変わらなかった。
「奢ってくれますよね?」
「いや、だから」
「奢ってくれるんですよね?」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……了解」
「それでは、私のもそうして下さるのでしょうか」
「あ、天野もか!?」
「はい」
「何てことだ。知り合ったばかりの頃の、慎み深い天野美汐はどこに行ってしまったんだろう」
「相沢さんが悪いんですよ」
「はぁー、仕方ねぇなー」
 祐一は後ろを向いてから、ズボンから財布を取り出し、中身を確かめ始めた。「おいおい、大丈夫なのか、今月」などとブツブツ言っている。栞と美汐はその様子を見て、クスクスと微笑んでいた。
 先程の様子を見ると、この三人は相当に仲が良いらしい。僅かな疎外感。そして、沙耶は昼休みの2人の態度の原因が分かってしまった。
 ――要するに、ライバルって訳ね。しかも、2人とも。
 恋する乙女の特権か、これだけのやり取りで沙耶は正確に事の状況を把握してしまっていた。恐ろしい洞察力である。
 そして、一つ思い出した事があった。
 ――相沢先輩って、あの時の先輩だ。
 そう、沙耶と祐一は以前にも会った事がある。しかも沙耶の方から声をかけたのだ。あの時は、中庭で栞と会っていた先輩に、栞の事について聞いただけなので、今まですっかり忘れていたのだ。昨日会った時に感じたモヤモヤは、この事だったのだろう。
 祐一は既に財布から意識を戻し、2人と楽しそうに話している。本当に、仲が良さそうだ。
 自分は、出遅れている。沙耶はその様子を見て、そう思った。
 気付かれない様に深く呼吸した。目を瞑り、気合いを入れた。
「私も、がんばろう」
 その呟きは、三人には聞こえる事はなく、沙耶自身の胸へと染み込んでいった。
 目を開くと、輝かしい目標のために、沙耶は会話へと加わっていく。




 彼女は、その目標への道のりが、どれほどまでに険しいのか、まだ知らない。








  To be continued ――――








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