『KanonSS』
「cherry blossom」 後編
不覚だった。 何がといえば、昨日の夜緊張しすぎてなかなか眠れなかったのもそうだし、律義に時間通りに鳴っていた目覚ましを裏拳で沈黙させて二度寝したのもそうだし、学校へ行く準備をしていたら「なーに? 今日はやけに時間かけるのね」と余計な事を勘ぐってきた母の相手をしていたのだってそうだ。 自分の失態を振り切るかのように、雲行きが少々怪しい空や、後ろへと流れていく景色など横目にも見ず、真っ直ぐと前を向いて沙耶は走っている。 沙耶は、生きてきた今までの人生の中で、遅刻というものをした事がない。時間にルーズなのは駄目だと親に教育されてきた事もあるが、沙耶自身、余裕を持って行動しないと落ち着かないのである。 よく時間ギリギリになってからじゃないと行動しない人がいるが、何故そんな事ができるのか、まったく理解できない。きっと一生理解できないのだろうと思っている。 高校に入ってからはまだ欠席もしていないので、一年の時は皆勤だった。なので、できれば三年まで続けてやろうとも思っていたのだ。 しかし、そんな些細な目標が、脆くも崩れ去ろうとしている。 ――食パンでも咥えてれば、雰囲気出るかも。 脳味噌に酸素が十分に行き渡ってないのか、走りながらそんな事を考えてしまっている。そもそも、あんなシーンを書く漫画は間違っているのだ。だって、これだけ全力疾走しながら食べるなんて、できるわけがないではないか。確実に喉を詰まらせて死んでしまう。 そんな事を考えている自分に苦笑しつつ、足を動かす。 沙耶が視線を前に向けると、同じように走っている2人組みがいた。なんとなく沙耶は仲間意識を持ってしまう。 その2人組は、ピッタリと横に並んで走っている。その姿はあたかも夫婦のように息が合っていた。 「名雪、時間は?」 何やら走りながら話でもしているのか、後方へいる沙耶の所まで2人の会話が流れてきた。 「うん、このペースで行けば間に合うよ」 「毎度毎度言ってはいるが、何故に朝からフルマラソンをせにゃならんのだ」 「わたしは、走るの好きだよ」 「……頼むからもう少し早く起きてくれ」 「ひどいよ祐一」 「何故だ」 2人のうちの片割れは、聞いた事のある名前と声だった。 沙耶は追いつくためにペースを上げた。 「あの、相沢、せんぱい。おはよう、ござい、ます」 息継ぎで途切れ途切れの挨拶をかけると、走っていた男子生徒が沙耶に気付いた。 「ん? なんだ、沙耶か。おはよう」 「はい。おはよう、ございます。えーっと」 沙耶はとりあえず祐一の隣に並び、祐一を挟んだ向こう側にいる女生徒に目を向けた。 リボンの色を見ると、上級生のようだった。長い髪をなびかせて元気良く走っている。その表情は生き生きとしていて、輝いている。 「ああ、こいつは水瀬名雪って言うんだ。んで名雪、この娘は室井沙耶。栞と天野の友達」 初対面の2人にそれぞれを紹介する祐一。 「はじめ、まして。水瀬、先輩」 「うん。どうもはじめまして、室井さん」 挨拶を終えると、名雪が優しく微笑んできた。先程までの印象とは違った、全てを包み込んでくれるような微笑みだ。自分が男で、今三人並んで遅刻しない様に疾走している状況じゃなかったら8割型惚れていたんじゃないかと言うほどの。 「にしても、沙耶っていつもこれくらいの時間なのか?」 「いえ、そんな事は、ない、んです、けど……」 「辛いんなら、別に喋らなくてもいいぞ」 「は、はい」 今も三人は走っている。このままのペースで行けば間に合うだろうが、歩くとちょっと厳しいくらいだろう。 沙耶は先程の会話で乱れてしまった呼吸のリズムを、足を出すタイミングに合わせて戻していく。 不本意にも学校に遅刻しそうになってしまったが、祐一に会えたのは嬉しい誤算だった。今日の放課後、会う予定があるとはいえ、顔を見る事ができる時間が増えて悪い事はない。 沙耶は隣を走っている祐一に視線を移す。祐一は名雪と先程のように会話をしていた。 「ねえ、祐一」 「なんだ?」 「数学の宿題って、今日までだったよね?」 「宿題って何だ? 食べられるのか、それ」 「食べられないよ。それにしても、覚えてないの?」 「あー、前の授業の後半寝てたからな。多分聞き漏らしたんだろ」 それにしても、と沙耶は思う。 何故この2人は平然と会話をしていられるのだろうか。自分はそこまで運動は苦手ではない。得意とは言えないが、平均よりも体力はあるはずだ。 自分は息を切らしているのに、隣の2人はそんな様子を微塵も見せない。もしかして何かの手品? などと思ってしまう。 ――ああ、そういえば。 沙耶は思い出した。先ほど名雪と挨拶をした時に、どこかで見た事があるような。などと思ったのだが、確かに見た事があった。終業式の日などに、部活動で優秀な成績を残したものは壇上にて表彰状を受け取るという、一般生徒にとって見ればとっとと終わってくれとしか思えないような儀式があるが、それで見た事があった気がする。たしか、陸上部。 近くで見てみると、おっとりした雰囲気を纏っているし、とてもそのような人物には見えない。しかし、どれだけ外見とのギャップがあろうとも、今このような状態を見せ付けられては納得するしかなかった。 それに付いていっている祐一も、かなり凄いのではないかと思う。いや、しかし祐一は男だ。それこそ身体の鍛え方が違うのかもしれない。 「それで、どうするの?」 「香里に頼る」 「大変だよね、香里も」 「そう言うな。それよりも俺は、名雪のような1日12時間は寝ている眠り姫がその宿題の事を知っていたのが驚きだ」 「うー、酷いよ。わたしだって、いつも寝てるわけじゃないもん」 いやいや、そんな事よりも、と沙耶は思う。 朝一緒に登校していて、下の名前で呼び合い、親しそうに話している、この2人の関係はいったい何なんだ。 当然の疑問であった。 なんて失態だろう。遅刻しそうだったからとはいえ、朝も曇っていたのだから、傘くらい持ってくれば良かったのに。 今日は失態続きだな、と思いながら、沙耶は昇降口から絶え間なく雨が降り注いでくる空を見上げていた。 校庭の端へ目をやる。この大雨で、並んでいる桜の木からは花びらが軒並み落ちてしまっていた。せっかく奇麗に咲いていたのにと、残念な気持ちになる。 授業が始まるとほぼ同時に降り始めた雨は、勢いを衰える事がない。どんよりと暗くなっている空は、多少なりとも沙耶の気分を盛り下げていた。 祐一とは、ここで落ち合う事になっている。その後は食事を共にするわけだが、このような天気であればテンションが下がるのもやむを得ない。 他にも理由はある。 「ああ、水瀬先輩ですか? 相沢さんの従姉妹ですよ」 教室で登校時の出来事を話してみると、美汐はそう言った。 なるほど、従姉妹であるならば、親しそうに話していてもおかしくはない。それに、家が近ければ一緒に登校する事もあるだろう。 気を揉む必要もなかったのか、と沙耶が安心していると、 「それに加えて――」 ふう、息をつきながら美汐が続けた。 「相沢さんは水瀬家に居候していますから、同居しているという事実もあります」 前言撤回。従姉妹は4親等だ。現在の日本の規律によれば結婚ができてしまう。すなわち、敵だ。 決め付けてしまうのも危険な気がしたが、美汐の表情からして、間違い無いだろうと沙耶は思った。 そうだとすると、かなりの強敵になるのは間違いない。同性の自分から見ても穏やかになれるようなあの笑顔。それになりよりも、一緒に住んでいるという事実は見逃す事ができない。 栞に、美汐に、名雪。前途多難だなぁと、沙耶は思わず溜め息をついてしまいそうだった。 「よう、待ったか?」 降りしきる大粒の雫が地面で跳ねるのを眺めながら思考に没頭していると、後ろから声をかけられた。 先程まで沈んでいた気持ちが、加速度的に急上昇する。現金なものだな、と思わなくもなかったが、素直に嬉しいのだから別にいいや、と自己完結。 沙耶が声の方へ振り向くと、待ち人である相沢祐一が立っていた。 「いえ、全然待ってません。私も今来たところですから」 そう言ってから、デートでは定番のセリフだなと気付き、なんとなく恥ずかしくなった。 「そうか、それならいいんだが」 「へえ、用事ってそういう事だったのね」 そこへ、新しい声が会話に加わってきた。その人物は祐一の隣に立つと、肘で祐一の脇腹を二回ほど突付く。 「隅に置けないわね。相沢君」 「何でそんなに楽しそうなんだ、香里」 「別に。この事を名雪や栞が知ったらどうなるかなー、とか考えてないわよ」 「絶対考えてるだろ」 「どうかしら。って、あら?」 祐一の隣に立った女生徒は、何かに気付いたようにこちらへ目をむけてきた。 その顔を見て、沙耶も思い出していた。 「えっと、室井沙耶さん、だったかしら。何度か会った事あるわよね?」 「はい、そうです。美坂香里先輩」 栞自慢の姉で、美坂香里。沙耶が栞の家に遊びに行った際に、見かけた覚えがあった。普段、栞の話に何度も出て来ているのだが、実際に会ったのは数回目だ。 「ふーん、相沢君って、室井さんと顔見知りだったのね」 「知り合ったのは最近だけどな」 「ま、相沢君が可愛い女の子放っておくわけないものね」 「酷い言われようだ」 「冗談よ」 フフ、と香里が笑う。 栞がいつも「お姉ちゃんはすっごく奇麗で、頭も良くて、憧れなんです」と言っていたのが、納得できる笑顔だった。成績も学年一位を取りつづけているらしいので、まさに完璧と言ったところだ。 「じゃ、あたしはもう行くわ」 「そうか、じゃあまた月曜な。それと、くれぐれも余計な事は言わないように」 「どうしようかしらねー」 「頼むって。今日世話になった礼も兼ねて、何かお返しするからさ」 「期待しないで待ってるわ。それじゃ、室井さんも、またね」 「え、あ、はい、さようなら」 なんとなく敗北感に苛まれていた沙耶は、反射的に返事を返した。 香里は沙耶に手を振ると、女性にしてはシックな色の傘をさして、雨の中へと歩いていった。沙耶はそれをボーッと見送る。 「それじゃ、あいにくの天気だが、俺達も行くか?」 「へ?」 「いつまでもここにいたってしょうがないだろう」 「そ、そうですね」 「どうした? 何かあるのか?」 祐一は、歯切れの悪い沙耶の様子に疑問を持ったらしく、尋ねてきた。 「あ、いえ、香里先輩と仲いいんだなぁ、って」 「まあ、同じクラスだしな。こっちに越してきて、身内じゃない最初の友人だし」 「今日世話になったって……」 「数学の宿題見せてもらったんだよ。学年主席は伊達じゃないな。全問正解だった」 祐一は感嘆しているのか、呆れているのかよく分からない素振りで肩をすくめた。 沙耶は、今朝の祐一と名雪の会話を思い出していた。確かに香里という名前が出てきていたような気がする。 それでも、なんとなく納得がいかなかった。 「それはともかく、行こうか」 そう言って祐一は、大き目の黒い傘を広げて昇降口から出て行く。朝は持っていなかったので、置き傘か何かなのだろう。 沙耶はついていこうと一歩踏み出したが、重要な事を思い出し、足を止める。 祐一は沙耶が付いてこないので、不思議そうに後ろを向く。すると、沙耶の困ったような視線と正面からかち合った。 「どうしたんだ?」 「えっと、ですね」 沙耶は、意味もなく気恥ずかしくなってしまい、目を逸らしてモジモジとしてしまう。こういう風に、自分が立ち止まっていて、祐一が振り返るという状況って何故か多いな、なんて事も思った。 祐一はその様子を見て何か悟ったのか、これまた嬉しそうな表情になった。 「もしかして、傘忘れたとか?」 「……はい」 その言葉を聞いて、祐一の表情が真剣なものになった。しかし、目は笑っている。 沙耶はなんとなく嫌な予感がした。 「それは大変だ。こんな雨の中、傘も無しに歩くと完全に風邪を引いてしまうぞ」 「え、ええ」 「しかし、安心しろ。俺に良い考えがある」 沙耶の嫌な予感は、決定的なものになった。 もちろん、それを嬉しがっている自分もいたのだが。 沙耶は、どうしようもないほどドキドキしていた。 心臓が過労死するんじゃないかと心配になってくるくらいに胸は高鳴っている。 肩が触れあうほど(実際に触れあっているのだが)、近くに祐一の姿がある。祐一は左手に傘を持ち、わずかに沙耶の方へ傾けた状態を維持している。そのせいか、祐一の右肩は少し雨で濡れてしまっていた。 そんなに気を遣わなくても良いと思う一方、その心遣いに大きくダメージを受けていたりもする。今祐一の顔を見ると、体温の上昇で熱暴走を起こしてしまいそうだ。 「やっぱり、どこも桜の花は落ちちゃってるな」 今は校門を出て、駅の方へと向かっている。途中公園の側を通っている時に、祐一が呟いた。 「そうですね。この雨ですから、仕方ないんでしょうけど」 学校に植えてある桜の木もそうだったが、昨日まで奇麗に咲き誇っていたのを思うと、やはり寂しい。 それから2人の間に会話はなくなる。 思っていたよりも、ここまで祐一との会話は少なかった。こちらが困ってしまうくらいに色々と話しかけられると思っていた沙耶は、少し予想を裏切られた気分だった。 しかし、不快、という訳ではない。肩を並べ、雨の中を無言で歩くというのも良いものだなと思う。無言な分、思考は余計に祐一の事に向かってしまい、一人で赤面してしまったりするのが難点だったが。祐一に変に思われていない事を祈った。 「あ」 突然祐一が声を上げ立ち止まった。どうしたんだろうと思い、祐一の顔をうかがう。そして、祐一の視線を辿り、前に視線を向けていくと、道を向こうからこちらに歩いている2人組がいた。 向こうもこちらに気付いたのか、2人は沙耶と祐一の前まで来ると、そのうちの1人が笑顔で挨拶してきた。 「祐一さん。こんにちはー」 「こんにちは、佐祐理さん。久しぶりだね」 「はい。祐一さんにお会いできて嬉しいです」 佐祐理、と呼ばれた女性は、花のような笑顔でそう言った。 沙耶は佐祐理の姿をなんとなく眺めた。腰まで届く長い髪は、良く手入れされているらしく、とてもつややかで、同性の自分から見て羨ましいくらいだ。そして端整な顔立ちに湛えられた朗らかな笑みは、見るものすべてを幸せにするようだ。極め付けには、服の上から見ても分かるほどの均整の取れた完璧なプロポーション。なんとなく神様は不公平だと思った。 佐祐理の横にいた女性も祐一に声をかけた。 「祐一、元気だった?」 「よう、舞も久しぶりだな。元気してたか?」 「うん」 こちらの女性は舞という名前らしい。モデルのように背が高い。黒い漆黒の髪は後ろでリボンにまとめられている。佐祐理と比べて、目付きなどから少し鋭い印象を受けるが、こちらも美人だった。大人の女性、そんな言葉が浮かぶ。 この2人が凄いのだとは思ったが、自分はもしかして幼児体型なんではなかろうかと、沙耶は不安になってしまっていた。以前栞が「世の中ってのは、不条理なんですよ」と、憂いを帯びた表情で嘆いていた気持ちがなんとなく分かってしまった。 「えーと」 言いながら佐祐理は沙耶の方を向くと、丁寧に頭を下げた。 「はじめまして。倉田佐祐理といいます」 「あ、はじめまして。室井沙耶といいます」 無意識に沙耶もペコリとお辞儀をしてしまう。 「それで、こちらは川澄舞です」 「こんにちは」 言いながら舞は右手を差し出してきた。沙耶はやはり無意識にこちらも右手を差し出していた。 「こ、こんにちは」 握られた手の感触は、外見の鋭さとは逆にとても優しく、穏やかな印象を受ける。 「この2人は、今年俺達の学校を卒業した先輩なんだよ」 祐一がそう補足した。 「それにしても久しぶりだな。卒業記念の旅行に行ったきりだっけ」 「はい。大学の方が忙しくて、ちょっと会いに行く暇がなかったんですよ」 「大変そうだな」 「そうですねー。でも、大分落ち着いてきたんで、これからはちょくちょく会えると思いますよー」 「それは嬉しいな」 「はい。最近は舞なんて、祐一さんに会えないーって、拗ねちゃう事もあったんですから」 沙耶がその言葉の意味を理解する前に、舞が右手で佐祐理の持っている傘に手刀を入れた。傘に乗っていた雨粒が跳ねる。 佐祐理は、きゃあっ、と可愛い悲鳴を上げてクスクスと笑っている。 「おい、雨が跳ねて濡れるからチョップはやめとけって」 「……わかった」 渋々、といった様子で舞は右手を収める。そして佐祐理の方を見ながら拗ねたように言った。 「佐祐理だって、たまに溜め息ついて、祐一に会いたいって言ってたのに」 「あははーっ」 笑ってごまかそうとしているのか、佐祐理の笑顔には先程よりも赤味が差している。 ちょっと待って欲しい。沙耶は思った。今の会話は一体なんだ。まるで久しく会っていなかった恋人にようやく会えた時のような言葉たち。 まさか、この2人もそうなのだろうか。自分が今どうしようもない敗北感を味わっていたこの2人も。 「佐祐理さん達は、これから買い物か何か?」 「はい、お昼御飯を食べるついでに、夕食の材料も買っておこうと思ってるんです」 「なるほど。あー、佐祐理さんの料理も久しぶりに食べてみたいなー」 「あははーっ、では今度遊びにきて下さい。ごちそうしますよ」 「分かった、そのうち行くよ」 「楽しみにしてますね。……それで、祐一さんはこれからどうされるんですか?」 「沙耶と一緒にどこかで昼飯を食べる予定だけど」 「ははぁ、デートですね」 絶望感に打ちひしがれていた沙耶は、佐祐理の言葉にハッとなった。 「祐一さんと一つ傘の下、体を寄せ合って歩いてるなんて、ロマンチックですねー。羨ましいですー」 「佐祐理さん、一つ傘の下ってね……」 祐一は佐祐理の表現に僅かな苦笑を見せただけだが、沙耶の方はそうはいかなかった。 オーバーヒートを起こした沙耶は、気の毒になるくらいに顔を赤くして固まってしまっていた。 「沙耶さん、真っ赤ですよー。可愛いですねー」 「佐祐理さん、それぐらいにしといてやってよ。俺が言うのもなんだけどさ」 「そうですね。残念ですけど、あまりからかったら可哀相ですし。じゃあ、舞。行こっか」 「じゃあまたな。2人とも」 舞は頷き、佐祐理は一つお辞儀をしてから去っていった。祐一はその後ろ姿を見送る。 それから、動かなくなってしまった沙耶の顔の前で手をヒラヒラさせる。 「おーい、さやー」 沙耶はしばらく何の反応も示さなかったが、突然ギギギっと祐一の方へ顔を向け、わたわたと手を動かしながら喋り始めた。 「えっと一つ傘の下なんて私にはもったいないっていうか先程の2人とはどういう関係なんですかとかとりあえず私は嬉しくて相沢先輩はどう思ってるか分からなくて――」 「わかった。わかったからちょっと落ち着け」 ほら、深呼吸、深呼吸。という祐一の言葉に合わせて3回ほど深呼吸をする。 「落ち着いたか?」 「はい、すいません。取り乱してしまって」 「いやいや、こっちだって沙耶の可愛いところが見れて得した気分だし。それにしても凄いな。あの佐祐理さんですらからかいたくなるなんて、貴重な才能だぞ」 「嬉しくないです」 そんな事を言われても、困ってしまう。こんなに恥ずかしいのだから。沙耶は拗ねたようにそっぽを向く。 沙耶のそんな様子を見て、祐一はひとしきり笑ってから、いつもの調子に戻った。 「それじゃあ、俺達も行こうか」 沙耶は声には出さず、一つ頷くと再び祐一と並んで歩き始めた。 「はぁ、ついてないなー」 祐一は先程から何度目かの愚痴をこぼした。着ている制服からは水が滴り落ちている。びしょ濡れだ。 食事をする予定だったレストランにつく直前に、勢いよく走りぬけていった車に、思いっきり水溜まりの水をかけられてしまったのだ。 そのままの状態だと、店に入る事もできなさそうだし、風邪を引いても困るので、予定をキャンセルして祐一の家へ向かう事になった。 沙耶が申し訳なさそうに俯く。 「すいません。私を庇ったからですよね」 「たまたま俺が車道側にいただけだって。でも、沙耶にかからなくて良かったよ。ま、水も滴るいい男とか言うし、気にしないでもいいぞ」 祐一はたまたまと言っていたが、そうではない事を沙耶は知っていた。意識して祐一が車道側を歩いていたという事を。 その事実自体は嬉しいが、こうやって祐一が被害を被るのを見てしまうと、申し訳ない気分になってしまう。 「しかし、もう俺はこれだけ濡れちゃってるんだし、傘は今度返してくれればいいから、帰った方がいいんじゃないか?」 「駄目です。いくら既に濡れているといっても、さらに濡れる理由にはなりません。私がいいって言ってるんですから気にしないでください」 冗談じゃないと思う。自分を庇ってこうなったのに、そのまま帰って風邪でも引かれたら自己嫌悪に陥ってしまう。 「ははは。なんだかんだ言って、俺を心配してくれてるんだろ? 優しいな、沙耶は」 そう言って祐一は沙耶に笑いかける。 この人は、何故こんな事を臆面もなく言ってのけるのだろうか。自分が毎回赤面しているのが馬鹿みたいだ。 ……きっと、そんな所が好きになってしまったんだろう。そんな風にも思う。 祐一の顔が直視できず、道の隣に流れる川を見ると、増水した水流の中、どこから流れてきたのか桜の花びらが見受けられた。 「もう少しでつくぞ」 美汐にも聞いた話だが、祐一は従姉妹の水瀬名雪の家に居候しているらしい。その家にもうすぐ着くようだ。 沙耶は、名雪の顔を思い出して、気分が少し沈む。 ――なんで相沢先輩の周りは、奇麗な女の人ばっかりいるんだろう。 考えても答えは出ない気がしたが、自分が惹かれように、他の人も同じように祐一に惹かれていったのだろう。勘ではあるが、間違っていない気がした。 「祐一〜!」 「ん?」 突然の大声に驚いて前方を見ると、ツインテールの女の子と、赤いカチューシャをしている女の子がこちらに走ってきていた。 「祐一くん、おかえりなさい」 「真琴にあゆじゃないか。ただいま。2人はどうしたんだ? 買い物か?」 「そうよ、秋子さんに頼まれて……って、どうしたの祐一! ビショビショじゃない!」 「ちょっと、車に水を跳ねられてな」 「早く帰って着替えた方がいいよ祐一くん」 「分かってるよ、あゆ。俺だって風邪は引きたくないからな」 2人が現れただけで、途端に賑やかになった気がする。 会話の内容から判断すると、ツインテールの子が真琴で、カチューシャをしている方があゆというらしい。 どちらも「可愛い」という感じの女の子だった。 「ところで祐一」 ツインテールの方、真琴が祐一の隣にいる沙耶に、ぶしつけな視線を投げかけてきた。 「コイツ、誰?」 コイツ、ときた。しかし、不思議と不快感はない。気の強い娘なんだな、思っただけだった。 「おい真琴、”コイツ”は失礼だろう」 「そうだよ。ごめんなさい……えーっと」 「私は、室井沙耶っていうの。あゆちゃん、でいいのかな。私は気にしてないから大丈夫だよ」 あゆちゃん、呼ばれたのがくすぐったかったのか、あゆは「えへへ」と照れたようにはにかむ。 「ところでお前ら、買い物の途中じゃなかったのか。秋子さんをあまり待たせるなよ」 「あ、そうだった。こんな所で祐一の相手をしてる暇なんてないわ。いくわよ、あゆあゆ」 そう言うと、真琴は走り始めていた。買い物と言っていたので、商店街へ行くのだろう。 「あ、まってよ〜」 あゆも、真琴の後を追い、走り去っていった。 2人の背中が見えなくなってから、祐一がすまなそうに言った。 「悪いな、騒がしいやつらで。真琴の奴も悪気があるわけじゃないから、許してやってくれ」 「いえ、気にしてませんから。ところで、さっきの2人は、妹さんですか?」 「いんや、2人とも俺と同じ、居候仲間だよ」 沙耶はその言葉に多少なりとも驚いた。3人もの居候を住まわせている名雪の保護者に興味が湧いてくる。 「それにしても……」 くっくっく、と祐一が笑い始めた。 「『あゆちゃん』に、『妹さんですか?』ねえ……」 よほど受けたのか、祐一は肩で笑っている。沙耶にはどういう事かさっぱり分からない。 「えっと、なにか……?」 「ああ、まあ仕方がないけどな。一つ言っておくと、あゆは俺と同い年だぞ」 「えっ」 その言葉の意味を理解すると、自分がいかに失礼な事を言っていたかに気付き、申し訳なくなった。まさか、自分より年上だったとは。 「そ、そうだったんですか。もしかして、気を悪くしちゃったでしょうか」 「いや、大丈夫だよ。そのくらいで怒る奴じゃないし」 「そうですか」 自分が言った事が取り消されるわけではないが、少しだけホッとする。 「んじゃ、行こうぜ。水瀬家はもうすぐそこだから」 「はい」 歩きながら沙耶は考える。 名雪、香里、佐祐理、舞、真琴、あゆ。 香里は以前に会った事があったけれども、今日だけで祐一に関係する女の子と6人も知り合った。しかも、沙耶の目から見て、全員祐一に少なからず好意を抱いているようだ。自分と栞と美汐も入れると、9人。 ――もしかして、相沢先輩って、とんでもない女たらしなのかも。 自然とそんな考えが浮かぶ。 もうここまできたら、家のドアを開けたとたんに「おかえりなさい、祐一さん」などと言ってくれる、物凄く美人な奥さんみたいな人がいてもおかしくないのではないか。 「よし、着いたぞ」 ――まさかね。 どうやら水瀬家に着いたらしい。沙耶は、自分の被害妄想的な考えを振り払う。馬鹿馬鹿しい。いくらなんでもそんなわけないではないか。 「ここまで付き添ってもらったんだから、少し上がっていくか?」 「あ、はい。そうさせてもらいます」 軒先に立ち、傘を畳む。祐一がドアノブに手をかけた。ドアを開け、祐一と沙耶は玄関の中へと入る。 「ただいまー」 「お邪魔します」 沙耶は固まった。自分達が入ってきたのに気付いたのか、奥にあるドアを開け、こちらに向かってくる人物がいたからだ。 その人物は、2人の前まで来ると、左手を頬にあて、とても穏やかな笑みを浮かべてこう言った。 「おかえりなさい、祐一さん」 沙耶は、なんとなく泣きそうになった。 「あ、美味しい……」 一口飲むと、自然とそんな感想が出た。 「そう言ってくれると嬉しいわ」 沙耶はダイニングテーブルについて、紅茶を飲んでいる。 紅茶を容れたのは、沙耶の向かいに座っている秋子だ。もちろんお互いに自己紹介は済ませてしまっている。祐一は二階で濡れてしまった服を着替えている最中だ。 話を聞くと、秋子はこの家の家主であるらしい。要するに、居候3人を住まわせている名雪の母親である。 ――それにしても。 「どうしたんですか? 私の顔に何かついてます?」 どうやら無意識のうちに見つめていたらしい。沙耶は慌てて答える。 「いえ。……秋子さんとっても奇麗なんで、見とれちゃって」 おばさん、とは絶対に言えなかった。高校生の子供がいるとは思えない。正直言って、二十代前半、悪くても二十代後半に見えるくらいだった。実際、水瀬秋子という名前を聞いた時、「名雪さんのお姉さんですか?」と聞いてしまったくらいだ。 「ふふ、お世辞でも嬉しいわ」 癖なのか、秋子は左手を頬に当てて微笑んだ。笑うと、余計に若く見える。世の中は、不思議な事が多いんだなぁ、と沙耶は思った。 「ところで、まだお昼を食べていないという話だけれど」 「あ、はい。途中で、相沢先輩がああなってしまったので」 「そう。なら家で食べていきませんか?」 「え、悪いですよ、そんなの」 「気にしないでください。食事は大勢でした方が美味しいですよ。それに、祐一さんだって喜びますから」 強い口調ではないが、抗えない気分になる。少し考えてから、沙耶は頷いた。 「分かりました。ではお言葉に甘える事にします」 沙耶のその言葉を聞いて、秋子はにっこりと微笑んで、キッチンへと消えていった。おそらく昼食の準備をするのだろう。 1人になり、色々と考える余裕ができた。 まだ昼だが、自分にとってはやたらと密度の濃い日だと思う。祐一とデートができると期待に胸を膨らませて、昨日の夜はあまり眠れなかったというのに、実際はどうだっただろう。 朝遅刻しそうになって、学校に行く途中祐一とやたら仲の良い先輩と知り合い、栞の姉がやはり祐一と親しそうに話していたり、とんでもなく美人の先輩2人が祐一と再会したらしかったり、あの暴走気味な車のせいで食事の予定が水の泡になるし、また2人女の子は登場するわで、良い事がなかった気さえする。 もちろん、良かった事もあったのだが、沙耶にとっては祐一の周りにいる女性達の登場の方がショックだったのだ。 しかも皆が皆、魅力的な女性達であった事実は、沙耶の心に重くのしかかっていた。思い返してみると、沙耶が祐一の事を告白した時に、栞が「まだ増えるんですかー」と頭を抱えていた事もあった。あれは、要するにそういう事だったのだろう。沙耶が栞の立場だったとしたら、きっと同じように頭を抱えたに違いない。 ふう。と思わず溜め息をつく。今日の雨で、桜の花が散ってしまったように、沙耶の心も散ってしまいそうだった。春というものは、いつまでも続くものと思っていても、ずいぶんと早く終わってしまうものなのだろう。 「沙耶さん」 突然の声に顔を上げると、秋子がいつのまにか隣に立っていた。沙耶はまったく気配を感じていなかったので、かなり驚く。 「な、なんでしょう?」 「沙耶さんは、御飯物と麺類どちらの方がお好きですか?」 「えっと、どちらかというと麺類ですけど……」 「わかりました」 秋子はまたキッチンへ戻っていく。沙耶は驚いたなー、と思いつつ、紅茶のカップを手に取る。 「ところで」 キッチンに入ってしまう前に、秋子が唐突に振り向く。そしてこんな事を言った。 「沙耶さん。祐一さんは優しい方ですけど、鈍いところもあるので、頑張って下さいね」 思わず口に含んでいた紅茶を吹きそうになった。沙耶は少し咳き込みながら涙目で秋子を見る。 「な、な、な、何をいきなり」 「いえ、祐一さんを慕っている人はたくさんいますから。私は立場上誰かを贔屓する事はできませんが、皆さんの事は応援しているんです」 不思議な人だと思ってはいたが、いきなりこんな事を言われるとは思っていなかった。 会ってほとんど時間も経ってないというのに、そう確信を持って言えるほど、自分はそこまで分かりやすいのだろうか。いや、ただ単に秋子の洞察力がずば抜けいているだけだろう。 しかし分かったとしても、こういう事を突然言うだろうか。しかも、あのタイミングは狙ったとしか思えない。 「祐一さんも罪作りな人ですね。こんなに可愛い女の子を悩ませてしまうんですから」 困った人ね。と、秋子は例の頬に手を添えたポーズで言う。 「可愛い……ですか?」 「ええ。私から見て、沙耶さんはとても魅力的な女性だと思いますよ」 沙耶は首をひねる。自分では、よく分からない。 「ですから、自分に自信を持って下さいね。女の子は、笑った方が魅力的ですよ」 沙耶は「あ」と思ったが、秋子は既にキッチンに引っ込んでしまっていた。 まるで自分が今考えていた事が分かっていたような言い方だった。そしてあれだけの言葉で、沙耶は先程までとは違って、上向きな気持ちになっている。本当に、本当に不思議な人だ。 「ただいまー」 玄関の方から声がした。どうやら、買い物に行っていた真琴とあゆが帰ってきたらしい。 「おかえり。余計なもの買って来たりしてないだろうな」 祐一の声も聞こえた。着替え終わって、一階に降りてきたのだろう。 そのまま3人で賑やかにこちらへ向かっているようだった。沙耶は苦笑する。 きっと、桜が散ってしまっても、春が終わる事はないのだ。自分が勝手に終わったと思っていただけで。 そう、春はまだ終わらない。いや、終わらせてなんてやるものか。 勝ち目は薄いのかもしれない。でもそんな事はどうでもいい。自分の思うように、自分の精一杯でぶつかっていけば良いのだ。 今自分ができる事。それは、とびっきりの笑顔で祐一を迎えてやる事だろうか。 自分の顔に手をやる。 大丈夫。意識するまでもなく、自分は今、最高の笑顔を浮かべているに違いない。 もうすぐドアを開け、祐一達が入ってくる。 窓から外を見ると、既に雨は上がっているらしく、春の柔らかい日差しが雨の跡に反射していた。 |
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